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ポジティブ思考はそこまで大切な事なのか?

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「ポジティブ思考」とはそこまで大切な事ですか?

愚痴、不満を言うと脳は主語が認識出来ず、言った本人にも同様のダメージを受けるというのが既に科学的根拠としてあるそうですが、全く言わないのも不健康ではと思っています。

特に負の感情でも吐き出す時は吐き出した方がむしろ健康的ではと感じます。

愚痴、不満はどう解消するのが賢明なんでしょうか?
黙ってため込んでもいても病気になってしまうと思います。

2024年12月22日 3:30

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

愚痴リピートは疲れる。勇気と元気の種まきを。

欲・怒り・怠け・プライド等の煩悩は悩み苦しみストレスの原因になりますから、煩悩を伴う妄想雑念、思考の堂々巡りは脳・神経の疲労や不調につなかがる可能性がありますね。
たとえば会社の飲み会等で、愚痴や不満を同僚等と話しあって笑いに変えることは、思考の堂々巡りを解消するきっかけになります。
独りの脳みそで同じ情報の中でグルグル考えていると疲れますが、「なんだ、私以外の人も同じ愚痴を抱いていたのか」と受け入れられれば気楽になる可能性や、自己肯定感になる場合があります。
つまり、必ずしも愚痴不満を黙殺する必要はなく、信頼できる他人に愚痴を聞いてもらったりするのは悪くありません。
不満(怒りの煩悩)の回数や時間を最小限にすることでストレス軽減になり、ポジティブになれます。
ポジティブな思考や自己肯定感は、困難にチャレンジする勇気や、つまづいて転んでも起き上がる元気につながります。
何もチャレンジせず、1回つまづいただけで寝込んでしまう人は、物理的にも精神的にも幸せになりにくいでしょう。
ポジティブな思考は、勇気と元気(幸せの種まき)になります。
目の前に畑があっても種をまかなければは作物の芽は出ませんからね。
また、種をまいたり畑の世話をすること自体が楽しい趣味になる場合があります。

2024年12月22日 14:52
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

ムリに塗り変えなくてもよろしいかと

たとえば喩えは悪いですが、オナラはポジティブでしょうか?ネガティブでしょうか?屁は屁。屁それ自体に罪はありません。ためてしまへば毒になります。
屁、それ自体はポジティブでもネガティブでもなく「ヘ」なのです。ヘ。
一方、人は心の中でも屁をコいておる。
屁も神レベルのHEであれば無臭。人畜無害。平気なり。
スカンクレベルのHEとならばもはや兵器なり。
それでもONARAは自然なものですから、出さないわけにもいきません。
ため込めば害、わが身に及ぶ。
密集したエレベーターや電車の中でコけば戦犯ものですから、上手にコくのが屁のマナーなり。エチケットなり。屁の道なり。
つまり、心理的屁コキ、毒ガスOR芳香なる香りはその排出の仕方もデリケートな品性が問われるという訳です。
お葬式や結婚式の新婦の父への手紙のシーンなどでカマそうものなら一生黒歴史。屁°INT IT BLACK
もちろんこれは喩え。これから申し上げることの導入であります。
心の中の反応、心理のリアクションというものも本来自然なものです。
でてくるのも当然なのです。
嫌なことは嫌。
嫌いなことは嫌いで当然。
生理的に嫌悪感を感じるものは自然な反応ではあるのです。
だから文句も愚痴も言いたくなるのも当然でしょう。
ですが、文句や愚痴というものは、他の人が年がら年中言っていたらあまり気持ちのいいものではない。ですから、愚痴や文句そのものがいけないとは申しませんが、出すなら建設的かつ教導的に放出なさるあるよろし。
「建設的に屁をコくべし」
おしり探偵であればオナラで悪人を成敗する道具にまで昇華させています。
これは今後のあなたのテーマ・課題ですからあえて答えは出しません。
そこで「自己保身を最高最上のクオリティにするとどうなるか?」というヒントを出しておきます。
人間は誰でも自分の身が可愛い。誰もが死にたくない。嫌なことは嫌だ、自己保身がある。
お釈迦様もその死にたくない、苦しみを避けたいという自己保身の心理すら昇華されたのです。四苦八苦という苦しみ、愚痴や文句も最高最上のものにする道を得られました。
怒りも悲しみも愚痴も文句もHEも人間の持ち前のもの。
ですが、それを振りかざしても誰も救われませんよね。禅の公案にはガラクタを用いて人を救ってみろというものがあります。
正義の屁で人を害さず。愚痴も文句も救う道はあります。

2024年12月23日 9:16
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました。
とても励みになります。

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