大好きだった祖父のこと
初めて質問させていただきます。
最近、ふとした瞬間に数年前に亡くなった祖父のことを考えて苦しくなります。
私は小さい頃からおじいちゃん子で、小学校3年生くらいまでは1人で月に1回程度、祖父母の家に泊まりに行っていました。何かとあれば「じいちゃんじいちゃん」と言っていた私を、祖父もとても可愛がってくれていました。
しかし、小学校高学年辺りから通っていた塾が忙しくなり、行く回数も減っていき、中学校に上がってからは、学校が忙しいから、とほとんど顔を見せた記憶がありません。
遊びに行っても、「あんまり甘えちゃダメだもんな」と、勝手に自制心をかけて、「何でも欲しいもん言いんさい」とか、「好きなとこ連れてっちゃろう」という祖父の勧めをやんわり断っていました。祖父もそれに気付いてか、だんだんと私と話すことも無くなっていき、元々口下手な人だったのもあり、高学年に上がってから交わした会話の記憶もほぼありません。
そして、中学2年の初夏、突然祖父の訃報が入ってきました。祖母がずっと側にいたのですが、軽度の認知症が始まっていたため、亡くなっていたのに気付かなかったそうです。私が覚えている最後の祖父は、腰痛が酷いと言ってリビングに布団を敷き、ずっと横になっていました。
知らせを聞いた後、初めは頭が真っ白になって、何も考えられませんでしたが、しばらくして落ち着いてからは、ずっと「何でもっと会いに行かなかったんだろう」とか、「本当はもっと甘えて欲しかったんじゃないか」とか、色々と後悔のような思いがぐるぐる巡るようになりました。
しばらく忙しさでそんな感情も忘れてしまっていたのですが、最近落ち着いて考える時間が増え、その時にふとこの事を思い出して辛くなります。
こんな私の事を、祖父は恨んだり嫌いになったりしているでしょうか。
祖父の病状にもっと気付いてあげられなかったこと、祖父の最期を見届けてあげられなかったことがとても心残りで、未だに心の整理がつきません。
どのように考えるのが良いのでしょうか。
アドバイスお願いします。
長文失礼致しました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
絆が強いほど後悔するもの。そして寂しさの裏には嬉しさが。
はじめまして。亀山純史と申します。私からの回答を書かせていただきます。
私たちは、誰であれその人との絆が強ければ強いほど、「生前にもっとしてあげられたんじゃないか。」という後悔の気持ちを持つものです。たとえば、隣に住んでいる人でも、生前に自分との付き合いが薄ければ、その方が亡くなられても、生前にもっとお話をしておけばよかった、などとは思わないでしょう。後悔の気持ちがあるということは、そこにその人と特別な関わり合いがあったということです。ですから、後悔の気持ちがある自分を責めるだけでなく、そこに亡き人とあなたとの間にある絆を感じてください。
さて、あなたのおじいちゃんへの「あんまり甘えちゃダメだ。」という自制心に、おじいちゃんはあなたの成長を感じ取っていたに違いありません。おじいちゃんにとってあなたはいつまでも可愛い孫です。そして、「孫には何でも好きなものを買ってあげたい。」と言う思いは、あなたが何歳になってもおじいちゃんにはあったことでしょう。しかし一方、あなたの「あんまり甘えちゃダメ」という気持ちはあなたの成長を意味するものですから、それはそれでおじいちゃんにとって嬉しいことではなかったのではないでしょうか。あなたの成長は、ある意味おじいちゃんにとっては寂しい気持ちにさせるものであったかもしれません。でも、その寂しさの裏にはあなたの成長を感じる嬉しさがあったことと思います。
以上が私からの回答です。是非、墓前(お仏壇)にておじいちゃんに話しかけてください。あなたのすぐそばで、「おじいちゃんは大丈夫だよ。」と語りかけてくれることでしょう。
質問者からのお礼
お礼が遅くなってしまい、大変申し訳ありません。
亀山さんの回答を読んで、気持ちが落ち着きました。祖父が私の成長を感じていてくれると良いなあ、と思います。
これからお墓やお仏壇の前で色んな話をたくさんして、私の頑張りや嬉しかったことを伝えていこうと思います。
この度はありがとうございました。