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上手い我慢の仕方

回答数回答 1
有り難し有り難し 16

私は我慢が下手な人間です。

具体的にどう我慢に失敗しているか自分なりに分析してみると

1.途中で辛くなってそれに耐え切れず力尽きる
2.自分で我慢のしすぎと気付かず我慢しすぎて疲れる

この2パターンが多いような気がします。抽象的な表現になってしまいますが大きな目標の間に立てる中間の小さな目標を立てるのが下手な気もします。

また、長期的な我慢以外にも日常の小さないら立ちも半分はコントロールできてない気もします。半分は「どうでもいい」と思うことでいら立ちを回避してはいるのですが。残りの半分も上手く割り切れたらよいのですが・・・。

何か良い方法がありましたらアドバイスお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

我慢の時点でアウトです♡

我慢って、身心に良くないですね。
そりゃー、無理ですよ。
引用いたしますが、
1.途中で辛くなってそれに耐え切れず力尽きる
2.自分で我慢のしすぎと気付かず我慢しすぎて疲れる
だ、そうですが、
まず、
1.途中で辛くなってそれに耐え切れず力尽きる
⇒途中で辛くなるというより、その瞬間(辛くなるあたり)から思いの上で取り扱いを起こしたんです。
それまでは平気だったはずでしょう?
取扱いをし始めた途端から減速したのだと、気づいてみましょう。
そこに大きなヒントがあるのです。
次に
2.自分で我慢のしすぎと気付かず我慢しすぎて疲れる
⇒これも最初から我慢していたというより、自分の決め事を持ち込んでいるのですね。
最後の締めくくりの評価時点で、ダメ出しをして爆発しているだけです。
最初から、エゴの上、マイルールの上、自我の上で取り扱っているからいけないのです。

例えば、私は今、回答をしながら子供たちがものすごく騒がしいです。
通常の成人男性なら「うるさい!!!」といって子供を頭ごなしに黙らせて、ワイフから「サイテー」と冷視線をうけるでしょう。
ですが、私は静かです。
我慢してません。
はじめっからそういう姿勢は持っていません。
たしかに空間的距離も上手にとってます。
精神的距離も上手にとっているとも言えます。
ですが、一番の妙術は、取扱いをしないということだけなのです。
ただ、それをこの心身にさせているだけ。
優劣も、勝敗も、目的も、あるべきよう も ありゃしません。
だから、我慢が生まれません。
我慢を続けなきゃなんてことが発生しないのです。
我慢という状態は誰でも続きません。
はじめの一歩を誤れば、とんでもない所に行きます。
最初から、我慢しよう、というスタンスが実は大間違いなのです。
私の知る限り、仏教には我慢はありません。
わたくししない、取り扱いを起こさないというだけです。
忍辱といっても、これから我慢するのではなく、あなたがこの文字を全部読み流して、キレイさっぱりサラリと流していることです。我慢もへったくれもなかったでしょ?♡ワカッテチョーダイ(^<^)

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

安穏寺 丹下様

ご回答ありがとうございました。イラつくでもなく絶えるでもなく取り扱いを起こさない。そういった考えもあるのですね。しかしながら理解力の低い私としては「取り扱いを起こさない」というのがどういった感じのものなのか今ひとつピンと来なかったのもまた事実です。

俗世間でいうところの「シカト」であったり「無関心」みたいな感じなのでしょうか。そういった漠然としたものしかイメージができませんでした。全てにおいて無関心で機械のように過ごせたらそれはさぞかしイラ立ちもせず楽だろうなとは思いましたが。

追記

最近テレビでお坊さんが厳しい修行をしている映像を見ましたがあれは「我慢」ではないのでしょうか。辛くて逃げ出したいことでも目標があるから逃げ出さない姿は「我慢」のようにも見えましたが「我慢」のように見える別の何か、さしずめ「我慢もどき」なのでしょうか。

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