忍辱と我慢の違いについて
過去に相手方の勘違いにより誤った認識をされ、周囲に後ろ指をさされてしまう様な出来事がありました。
此方としては、実際に確認されればその場で誤った認識による部分は訂正し真実を伝えるつもりでしたが。
相手方と仲のいい方たちは『○○さんが言ってるし』とか『自分の認識や考え方と同じ人(仲間)も周囲にいるし』ということから、『事実確認』をせずに誤った認識をして、批判され続けたことがありました。(心理学でいう所の確証バイアスとエコーチェンバー現象そのものと言えるものなのですが)
此方としては『○○さんに○○された』とか『それ、嘘の情報なんだよ』等という訂正する内容を此方からペラペラ喋ることをせず、先に記した様に『確認して来た上で誤った部分に対して訂正する』気持ちのまま、なんだかんだで約10年近く経ちました。
仏教では『忍辱』という概念があると思いますが、『聞かれた時に“話す”為に説明できるよう準備をしておく』という行動は“忍辱”ではなく、単なる“我慢”になるのでしょうか。
(流石にこれ程長い期間、此方から主張できる“内容”があるのに、それを口に出さず白い目や悪い噂をたてられ、後ろ指指され続けるのに、少々疲れてしまいました)
この様な行動を取り続ける私は“忍辱の修行をしている”と言えるのでしょうか。
それとも、単に“自分勝手な被害者意識を持っている”だけなのでしょうか。
いい歳してこの様な稚拙な悩みを口にし、申し訳ありません。
そのうえで可能でしたら、何かお知恵を授けて頂けませんでしょうか。
宜しくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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認識に「正しい認識」も「誤った認識」もありません
ヒトの認識はある現象に対する情報の集積と解釈によって生ずるもので、この場合、解釈はどのような可能性にも開かれています。ですから、認識自体に「正しい」も「誤った」もありません。その現象に対してその時点でそのヒトがそのように意味づけた以外のものではありません。他人同士はもちろん、個人の中でも認識は時々刻々に変化しズレ続けています。
忍辱はそういう認識の性質を理解して、それによって生ずる困難さや他からこうむる妨害に心を動揺させることなく、そういうものだと受け入れる態度のことだと思います。
他からの妨害を「誤り」だと判断したり、それを自分の認識に引き寄せようとするのは、すでに忍辱とは離れたものであるといえるのではないでしょうか。
沢庵和尚がまだ若い修行僧の頃、ある庄屋が沢庵の真面目な修行の様子に感心して手厚くお布施をしていたそうです。
その庄屋には年頃の娘がいましたが、ある時、誰の子供ともしれない赤ん坊を妊娠してしまいます。庄屋は娘に誰の子かと問い詰めますが、相手が罰せられることを怖がった娘はつい「沢庵さんの子です」と嘘を言ってしまいます。仰天した庄屋がまさかと思い聞くと沢庵は「そうでしたかな」とぼんやり答えるだけで、是とも非とも言いません。怒った庄屋は「真面目な坊さんだと感心してたのに、とんでもない生臭野郎だ。自分の種は自分で始末しろ」と生まれた赤ん坊を沢庵に押し付けます。
沢庵は仕方なく赤ん坊を抱きながら托鉢し、赤ん坊に乳を分けてくれるように頼んでまわったそうです。しかし、沢庵が庄屋の娘に赤ん坊を生ませたという噂は広がっており、托鉢も乳をくれる人もままならない日が続きました。
何日かして、庄屋の娘は嘘をついた苦しさと赤ん坊のことが心配で、とうとう本当のことを白状しました。またもや驚いた庄屋が沢庵に、どうして違うといわなかったのかと問うと沢庵はやはり「そうでしたかな」とぼんやり答えて、赤ん坊を娘に返したそうです。
悪評や噂話は火の粉のように降りかかってくるもので、反射的に払い除けたくなるものです。もちろん現実的に早急に訂正しなければならない場合もあるでしょう。そうであっても、認識とはどういうものかわかっていれば、自ずと道理にかなった方法を取れるようになるのではないでしょうか。
質問者からのお礼
百目鬼洋一様。
早々のご回答有難う御座います。
当方としては、今現在『恨んでも』いなければ『怒り』の感情もいだいてはいません。
人の数だけ人生において経験できる『内容』もその『タイミング』も違うからです(一生をかけて経験できない様な事もあれば、若くして経験できる場合もあるので、)
『そういった見方もあるんだな』と思うようにしています。
ただ、1つだけ懸念なのが、確認作業を怠り、先入観でそういった見方をし、私の関係者が過去に『批判されてしまう事』があったからです。
勿論、私自身が『もっと違った選択肢をとっていればこの様な事にはならなかった』のかもしれません。(自分の落ち度については反省し、改めて自身の内側へと目を向ける様にしてきました)
そのうえで、気になった部分が、昨今の情報社会において『正しい情報』も『誤った情報』も簡単にネットに拡散されてしまう事があるからです。
そういった事で『傷つかなくていい人』まで傷ついてしまい、最悪、自死の道を選んでしまう人も昨今では以前よりもメディアで目につく様になりました。
そういった部分に対して、あくまで私個人としては『畏怖』の念を感じるものが散見されていたので、此方に相談させていただきました。
それらを踏まえても百目鬼洋一様のお言葉を今一度、自身と向き合う為の機会とし、改めて見つめ直そうと思います。
長々と稚拙な内容になってしまいましたが、大変参考になりました。
有難う御座いました。