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過去の自分の過ちと罪悪感

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過去の自分の行動に過ちがあったことで日々罪の意識に苛まれております。
詳細をお話できないのですが、大変な状況にある友人のご家族を思いやることができず、間接的にではあるものの軽率な行動をしてしまいました。
命に関わるような状況にあるのに、それを深く捉えられず、人として正しい行動ができませんでした。
今に至る間に気付き、行動を改める機会はあったにも関わらずできなかった自分が許せません。

そのご家族の状況、まさかのことを思うと食事もろくにできず、心も頭も壊れそうです。
今はただただ反省し、二度とそのような過ちはしないと深く誓っています。そして、代われるのなら私がその方に代わってでも家族が救われてほしいと思っています。
結果はまだわかっていないのですが、悪い方にばかり考えてしまい、知ることを恐れています。
何があっても自分の罪として背負っていかなければならないと頭ではわかっていても、実際そうなった時に耐えられる自信がありません。
自業自得であるのに、心が弱く逃げ出したくなる自分が本当に嫌いです。

また、そのご家族に対する罪悪感はもちろんですが、過ちを犯した私は人間の心を持っていないのだと感じ、育ててくれた自分の両親にも申し訳なく堪らない気持ちです。
内容が内容だけに、友人にも相談できません。
漠然としており申し訳ありませんが、どうかお言葉をいただきたくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

過去を憂い 未来を憂いて 現在を見失っている

故意ではなかったのでしょう?
悪意があってやったわけではないのでしょう。
おそらく自分がわざとそれをやろうと思ってそうした訳ではなかったのではないでしょうか?
ならば、詫びるべきを詫び、今後慎むべきを慎み、改めるべきを改めましょう。
もし、あなたの恐れる最悪の事態に発展してしまったとしたならば、その時、そこで、あらためて決意すべきことでしょう。今、いまだ来らぬことをむやみに恐れてもその時になる訳では無いので、恐れても仕方ありません。
どうなろうとも、自らの責任として、なるべくようになったら、その方のみならず、多くの方々の助けになるような、利他の行いを続けていって頂きたいと思います。
罪滅ぼしの為だけ、というわけではなく、その反省も含めて、自分を中心とした生き方を改めて、誰かを❝利益(りやく)❞する行いを、積み重ねていくことで、暗い闇の道の中でも、いつか必ず赦されて光を見つけ出すことができるはずでしょう。
人間、自分が意図的にした行為でないことでも、直接的、間接的に、まさか、と思うような事態を引き起こしてしまう事もあるものです。
おシャカ様とて、布教をされているだけでも、他者から恨みを買うような事もありました。
後先を見ずに、今為すべき事を為するべきです。
質問内容からも感じられることですが、あなたは物事をあいまいにし過ぎていると思います。そういう伝え方ですと、相手にも誠意が伝わりませんから、それも改めましょう。
確実に言える事として、あなたは思いの世界で生きている状態です。
現実に帰ってきて下さい。
具体的に、厳密に、ハッキリとした生き方をすることです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様
お言葉をいただきありがとうございます。
ご指摘にハッとさせられました。曖昧にすることで現実から逃げ、自分を守ろうとしていたのかもしれません。いかに自己中心的で誠意がなかったかと改めて感じております。
これまでの自分の言動は、意図して人を傷付けるようなことはなくとも思いやりや配慮に欠けていたことは確かです。
結果に対する恐れは消えませんが、自分の生き方を悔い改めるために与えられた時間と考え、これまでできなかった分も、これからは周りの方々のためにできることをしていきたいと思います。
本当にありがとうございました。

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