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何を支えに生きればいいですか?

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有り難し有り難し 28

私は症例が少ない先天性の障害をもって生まれて26歳で結婚しました。小さい時に医者には20歳まで生きれるかわからないとまで言われましたが、再来月また1つ歳をとろうとしてます。両親はもちろん、周りの人達にも感謝しきれないくらい助けてもらいました。23歳の時、子供を産むのは無理だろうと言われ当時交際していた(今の主人)にも打ち明け主人はお前でいい。と言ってくれて結婚をしました。無理だと分かっていても諦めきれずケジメの為とあえて自分に厳しい選択をし大きな病院で検査をしましたが、やはり子供は不可能でした。子供は無理でもその分頑張って生きようそう考える様にしましたが、ふとした時自分の周りで同じ年代の女性が大きなお腹をしていたりすると、何で私だけ。何か悪い事でもしたの?と思ってしまいます。良い方に考えよう。そう思っても耐えきれず涙する事も多いです。こんな思いをしてまでも私は何故生まれてきたのか生きないといけないのか分からなくなる時があります。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人が人間として生まれてきた目的は、「仏様と出会うため。」

亀山純史と申します。人はなぜ生まれてきたのか。ある人は障害を持って、そして、ある人は障害を持たずに生まれてきます。しかし、生まれてきた目的に、障害を持って生まれた人と、持たずに生まれた人との間に、違いがあるはずがありません。なぜなら、どちらにしても、様々な因縁によって奇跡的に生まれた私たちであり、そこに、生まれてくる人を区別をする意志は働いていないからです。
さて、私は、人が人間として生まれてきた目的は、「仏様と出会うため。」だと思っています。「仏様」とは、智恵と慈悲を持って、自己中心の考えから脱け出すことができない私たちを、何処までも照らし出してくれる働きであり、この世は無常であり、何一つ、自分のものにはならないことを、私たちに教えてくれる働きです。そうてあれば、障害を持って生まれた人は、障害を持たずに生まれてきた人よりも、実は、この世の無常を体感しており、知らず知らずのうちに、仏様と出会っているのではないでしょうか。そして、仏様と出会うことが、その人を大きく成長させてくれることでしょう。
三重苦(見えない・聞こえない・話せない)の障害者として知られるヘレンケラーは、自身の障害に対して、神に感謝していると言っています。それは、(障害によって)自分自身を見つけることができたからだと言うのです。(I thank God for my handicaps. For through them, I have found myself)
人智を超えた世界に私は生かされている身であることを、私は仏教を通して教えていただきました。質問者のぼうろさんも、すでに仏様と出会っていたのではないかと思います。どうか、その出会いを大切になさってください。そして、もしも、まだ仏様と出会っていないと思ったならば、是非とも、出会いましょう。仏様はもうすでに、あなたの傍らにおいでになられます。

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おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

思いから離れた生き方を支えにしましょう。

私は以前、悲観的なものの見方をして過ごしてきました。
色々な負の感情に苦しんできました。
劣等感、恐怖、怒り、嫉妬、自意識過剰、ひがみ…、有り難い事に、あらゆる苦しみを授かっています。これは私が坊さんとして、それを乗り越えてその乗り越え方をひと様方にお伝えしなさいと言われているようにすら感じています。(笑)
どんな苦しみも、そういう意味においては功徳です。
あなた様が救われるために、私がアドバイスできる事は、
「自分が世間や他人、自分に対して、あれこれと負の思いや感情を起こす以前のままを生きられる」ようになっていただきたいという事です。
坐禅をすると、自分の考えをおこす以前、起こした以後の世界に目覚める事が出来ます。
思いって自然に出てきてしまうのです。
でもその思いをいちいち取り扱いを起こしているのは結局自分の思いはからいなのです。それをやめて、本来の姿に立ち返るのが坐禅です。
日常でも、その思いから外れた心の在り方で生きる、話す、聴く、みる、おこなう。
とても楽ですよ、自分の考えに染まらない、影響を受けない、縛られない、振り回されないという事は。
この点を踏まえて禅の修行を求めると良いと思います。
禅って、なにやら坐禅臭い、禅臭いイメージが強いでしょうが、ただ単に自分意識を離れて、思い世界から外れた自分を見出すことなのです。
YOUTUBEで井上哲玄老師、井上貫道老師らの動画をご覧いただきたいと思います。
とてもはっきりされた方々です。
参じられた方々はみな、まやかしなく、ハッキリと自分の本来の姿に還っていかれます。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丁寧なお返事ありがとうございました。私にはまだ亀山様が言われる仏様と言うものがどう言うもので、どの様な出会いになるのか分かりませんが、きっと今迄辛かった事も誰でもなく私だから乗り越えられたのかなぁと思います。最近、自殺する瞬間を目にした事がありました。その方にとってきっとどうしようもない位辛く苦しかった事だったのでしょうが、私には自ら命を絶つ事は私自身をこれ迄生かしてくれた方達に対しての一番してはいけない事の様な気がします。私に何が出来るか分からないですし、これから先も沢山泣く事もあると思いますが、与えられた命がいつか最後の日になった時に全うした人生だったと思える様に生きていけたらいいなぁと思います。今の主人と出会わせてくれた事も亀山様とのご縁も仏様のお導きだったのかもしれませんね。

丹下様、ご丁寧なお返事ありがとうございました。坐禅ですか。
自分は自分と言い聞かせても、なかなか生きていく環境に自分の欲や願望が出てきてしまい、それを出来ない自分を悲観的に考えて追い込んでしまっているのも私の悪い癖だと思ってます。そして、その事で苦しくなるのも辛いです。上手くお伝え出来ませんが、自分の中の苦しくて辛くなる心が少しでも坐禅をする事で取り除かれるのであれば是非試してみようと思います。ありがとうございます。話を聞いて頂ける場所がある事に感謝です。

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