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趣味を続けるかやめるか悩んでいます

回答数回答 3
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私には長く続けている趣味があります。もうかれこれ15年ほどになるでしょうか、人生の半分くらい続けてきたことになりますが、最近それが楽しくなくなってきました。
もちろんやり始めたときは楽しくて楽しくて、これをずっと続けてきたことに喜びや誇りをもっていました。それが徐々に「あれ?なんだか楽しんでいないな」「いや、むしろ辛いような…」となってきました。

趣味の内容は、うまく書くことはできませんが例えるならばスポーツ選手やアイドルのようなものなのではないかと思っています。

技術は年月を経て積み重なりどんどん身についてきているのに、体力的にも見た目的にも若さが必要で、年齢的にもうダメなのではないか?と悩んでいます。

また、その趣味の世界でのルールや常識の変更みたいなものについていけないという点もあります。私が始めた頃はまだそれをやっている人が少なく、それにより世間との差みたいなものが楽しかったりしたのですが、今は一般化してしまいそういった「特別感」みたいなものが無くりました。そして、単純に人が増えたことにより私が押し出されている状態です。

今まで長く長く続けてきたことにより、物理的にも精神的にも生活の一部となっています。周りには「やりたいなら続ければ?」「嫌ならやめればいいじゃない(笑)」と言われるだけですが、私は悩み過ぎて鬱になってしまいました。もともと鬱になりやすくはあるのですが、原因が自分でもわからなかったのですが自分でもまさかの趣味が原因だった!という状態です。

新しい人がどんどん入ってきてもう敵わない

でも生活の一部となっていてやめにくい、「まだいけるのでは?」と期待してしまう

結局敵わなかったから精神的に辛くなる

鬱っぽくなってクオリティが下がる

これを繰り返しています。

スポーツ選手やアイドルだって時期が来ればそれをやめることになるのでしょう。それはわかっています。自分はあくまで趣味なのでちょっと違うかもしれませんが、人生の一部となっていることについての判断をどう乗り越えていくのでしょうか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

絶対必要なら迷っていないはず。

続けるかどうか迷っているということは、今のあなたにとって、「どっちでもいい」ことだからです。
その場合は、身近な他人の利益を考えて選択するのもいい。
お釈迦様が悟ったとき、もう、死んでも生きてもどっちでもいい無執着でした。
そのときに梵天という神様から頼まれて、お釈迦様は、他人に教えを説くために生きることを選ばれた。
たとえば、あなたの趣味で、誰かに迷惑をかけているならやめるのもいい。
あなたの趣味が誰かの役にたっているなら続けるのもいい。
自分が迷ってるなら、誰かのために選択してみては?
さて、迷って、右か左か、やっぱし右か…なんて思考がグルグル堂々巡りになってる場合は、
判断材料となる情報がないわけです。
材料がないのに料理をつくろうとして、でも材料ないから作れない、でも作りたい、と空回り。
そんなときは、新しい材料(情報)を入手すると、途端に判断できるようになる可能性があります。
今までと違う環境に、一歩踏み出してみてはどうでしょう?

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

自他ともに楽しませる

私は高校時代に剣道部に入ったら女子しかいなくてやめました。竹刀にヒモ(ツル)がついていて定規でべんべんはじいているうちに音が変わって面白いのでギターを始めたくなりました。(笑)
ある時ギターをもうやめようと思って先輩僧侶に譲ろうと思ったら「今までやってきたことは必ず何らかの功徳になるからやめない方が良いよ」と言われ、その時はピンときませんでしたが、今になってみると本当にそうだと思いました。
長年やっていることって、自分を知る事の上でとても役に立つのです。
私は演奏しながら、自分の心の様子が分かるようになりました。
いつかやってみたかったびわ法師にもなれました。
書家の方なら、字のラインをみればその人がどういう様子かも分るように。
画家の方なら、その絵をみれば何を物語っていればわかるように。
勝ち負け、競争の為にやってはいけません。
純粋にそれを楽しんでいるからこそ❝楽しい❞のです。
スポーツも音楽も芸も勝ち負けではありません。
その道をトコトンやり続けいくと、誰かに楽しんでもらう事もできるはずです。
どうか、今は好きになれなくても必ずやっていてよかったと思える時がありますから、それに変わるものであっても構いませんから続けて行ってください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

趣味を趣味と割り切る。

趣味は楽しいからするものですね。
何故楽しめるのかと言えば、あくまで「趣味」だからです。
趣味というものはそれ自体が面白いかどうかも大切ですが、それ以上に「何の糧にもならない」という所に落しどころがあるように思います。
何の糧にもならないのだから勝っても負けても楽しめます。
勝敗を含めて楽しんでやれるのが趣味の強みです。
プロならば負けていては仕事になりませんから、楽しんでやるなんてできません。

浄土真宗は阿弥陀様に全てお任せする宗教です。
他力本願ですから、自分の修行などは全て無効であり何の糧にもなりません。
だから楽しんで人生を過ごせます。
勝っても負けても、どっちでもいいのですから。

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有り難し
おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学の身でありますが、多くの方のお支えの中で日々精進しております。 仏教には、「私が知らないことを仏様から聞かせて頂く」という大切な側面があります。 聞かせて頂くのは、仏様の智慧であります。 今まで仏様のご縁が遠いと感じておられた方が、少しでも仏法に触れるご縁になれば幸いです。

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