hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

自分を守るには

回答数回答 1
有り難し有り難し 10

社内いじめや、家庭内不和の際、その解決策として「誰にも言わずに反論もせず耐える」ことは正しいのでしょうか?

不当と思われる事柄に対し、仕事の妨げになっている旨を訴えたり、家庭内不和の相談を家族にしたところ

「組織(又は家庭)にはそういった扱いをうける人間が必要でそうすることで組織も家庭も成り立っている」と家族や教育委員を務めている上司から言われました。

それが社会の一般常識なのでしょうか?

愚痴を言わないことも、争わないことも優れた人格であるとは思いますが、ただただ生け贄のように不機嫌な人とその人の被害に合いたくない周囲の人々から、体のいいサンドバッグとして差し出されている感がいなめませんし、悔しくもありました。

不当な扱いをうけるたびに、黙ること、愚痴を言わないこと、周囲に漏らさないこと、仕返しをしないことを教えられてきましたが、これからの人生を生き抜く上で何らかの対策をしなければ...と思っています。

自分を守るためには戦うべきと思いますが、加減が分からずむやみに攻撃しすぎたり、キツい言い方をしすぎたりして周囲から引かれたこともあります。

過剰な怒りを抱える前に、自分を守り生き抜いていくためには、どのような考え方を身につけたらよいのでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

適切に的確に反論。

※回答と共に反論のヒナガタを記しておきます。

成程。あきらさん。(相手の名前をちゃんと呼ぶ)
それはひどいですね。会社の上司さんも親御さんも、ちょっときついもの言いですねー。あんまりだと思います。(同調。受け止め、ナイスキャッチ♡)
実は、あきらさん。(相手の名前をちゃんと呼んで同じ土俵に侵入。)
良い方法と思われる事があります。(winwin提案前フリ)
それが今後、皆にとっても有益・プラスになると思うことがありますので、(相手にとってのプラス面提示)
ご提案させていただきたいのですが、お時間1分だけよろしいでしょうか。(時間かけませんワよ)
「◌◌◌◌… ☜イイタイコト」(要求。少し高め設定。)
ご返答は今でなくて結構です。(え、今でなくていいんかい。相手に考えさせる。)
ですが、これは∇△など、お互いに良い面があると思うのです。(メリット再提示)
善処して頂けますよう、一日だけ、ご検討のほど、よろしくお願いいたします。(押しつけがましくなく)
明日、良い答えを頂けますよう、あらためましてお時間のあります時にご返答を伺いに参ります。

これはあくまで例ですが、この様に伝えることで、相手はアナタの存在をちゃんと認め、テキトーな扱いが出来ないメンドクサイ奴だと思われて対応が変わってくるでしょう。
いじめられっ子であってもちゃんと言うべきことを言わないと永遠にいじめられます。
言うべきことは言う。
ただし反論、反発的反論、攻撃性を持った反論では通じない場合があります。
こちらが豊臣秀頼で相手が徳川家康やチュ◌ゴクだったらそれをきっかけに因縁つけてこちらを滅ぼしに来る口実を与えかねません。
ですが、打たれっぱなし、やられっぱなし、好きなようにされっぱなしでは、すべて相手の思い通りになり、こちらの権利も人権も何もありません。
上手に反論する。というより、上手に伝えるべきことを伝える。
怒り狂った暴圧的な人間でさえ、この世では一緒に存在していかないといけないのです。
その牙がこちらに向かってくるハタハタメーワクなことは実際に生きているだけでもあることです。
ならばこそ、自分の相手を憎む心、感情を一度鎮めて、今後の自分の身を守るためにこそ、冷静で的確、適切なソフトなものの伝え方を実践してみましょう。
あきらさんならきっと道を切り開いて立場を好転できるでしょう。(励まし)

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ