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男性への苦手意識と顔面差別

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標題のとおりです。私は男性がすごく苦手で、人によっては恐怖心や嫌悪感を感じており、仕事にも支障が出るほどです。元々人見知りも強く、これまで女性としか接しない環境にあったこと、また、過去に同級生の男子から軽いイジメを受けていたことがトラウマになっているのだと思います。この数年で、かろうじて目をあわせて会話を成立させることができるようになったのですが、それでも距離を詰められるのは苦手ですし、ずっと目を見続けて会話をするのが苦痛で、話している間一瞬他のものに目をそらしてしまうことがあります。そのことが原因で先日お客様からこっぴどい苦情をいただきました(親の育て方が悪い、バチが当たれ云々)しっかり目を見て謝罪をした上で、親は関係ない旨をお話すると逆上され、ただただ怒鳴られ、自分の中でさらにトラウマになりました。しかしこの方、可愛い女性には目がなく彼女達には一切怒鳴ったり口汚なく罵ったりしません。また、この方以外にも女性を顔で選ぶ方が何名かいらっしゃり、あからさまな差別をします(○○さんは可愛いから、○○さんならいいといった感じです)男性にとってやはり女性は顔が全てなのでしょうか。そう考えただけで気持ちが悪くなり、ますます男性を嫌いになりそうです。どうすれば克服することができるでしょうか。(ps.恰幅のよい人や勢いのある話し方をする人、威圧的な男性が特に苦手です。好感をもっている男性や、全く平気である男性も一定数います)


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

誰もが顔面至上主義な訳ではありません。

こんにちは。
見るもあわれ、恵まれない顔の持ち主、生まれてすみません、顔面ひでぶの破顔系、キモカワ怪答僧タンゲです。あ、息吸ってもよろしいでしょうか。
まぁ、私のような可哀想な顔をしている人もいますが、今日もこうして、かろうじて生きてますから大丈夫ですよ。あー、おひさまあったけー。☀
比べたらキリがありませんので顔の善し悪しは忘れることです。
見上げてごらん、夜空の星を。☆彡
太陽は太陽の良さ。木星は木星の良さ。金星は金星で輝いてる。月は月の良さ。砂粒は砂粒の良さ。
トイレットペーパーにはトイレットペーパーの良さ。木星じゃデカすぎて拭けませんよ、オシリ。
そんな四六時中、顔の事ばかり考えている訳ではないでしょう。
忘れている時だってあるはずです。
そういう時、そこに、重きを置きましょう。
どこに重きを置くかって「顔」の事を事ばっか考えていたりしない時。忘れている時です。
自分をヒクツに思っていない時です。
何か一つを取りあえてそこをずっと握っていることを執着と言いますが、それを手放して生きることです。見上げてください。お空の星を。
1人の美男子、美人をつくるためには10人の醜い人が必要であるといいます。
だれが、それを見にくい美しいと決めるかは本人次第。人間だけ。
星には美しい醜いなんてありません。
それぞれが神妙不可思議。
我々の一人一人の存在も同じです。
なにも世の中、顔ばっかりで選んでいる訳ではありますまい。
いくら顔が美人サンでも性格が歪んでいる人間なんてゴマンといるもんです。
芸能界だって、どれほどもてはやされても本人が自分自身に真の満足がいかなければ「あの女優さんの方がキレイだから、あのタレントの方がSEXYだ」と比較して幸せにはなれません。私のようなブチャイクでも一生の安心を頂けば、顔の事など問題にならなくなるのです。
AKB総選挙の勝ち負け優劣で泣いたりする子のあさましさはそれを教えてくれているのです。
皆それぞれ十分です。
「いくら相手が美人や美男子を要求する人であるからと言って、あなたがその人のルールに沿って迎合すればあなたも同レベル同世界を生きる」という事になるのです。
なんで顔や姿なんて、望んでその形で生まれて来ようと思わずに生まれてきたのに、誰かの基準の「美」をナンバーワンにしなきゃいけないものでしょうか。

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

自分を律して生きる

「人を非難せず、傷つけず、戒律をよく守り
食事には適量を知り、独り静かに坐り臥し
心を調えることにつとめる
これが諸仏の教えである」
(法句経)

戒律とは仏弟子が守るべき生活規律のこと、お釈迦様から弟子たちへ「生活する上での心構え」の言葉です。
大事なのは「心を調えることにつとめる」というところ。
自ら努め励まなければ、自らの心を調えることはできないのです。

他人の言葉、とくに、しょ-もない輩のつまらない暴言は、受けとめる必要がありません、聴いているふりをしながら、心の中で華麗にスル-してしまえばいいのです。
大切なのはあなた自身の立ち居振る舞いです。

あなたがどんな環境で育ったか、どんなトラウマを抱えて生きているかなどは、社会に出てしまうと一切関係ありません。
いちいち、出会う人みんなに「私はこういう環境で育ったので、人の目を見て話せないんです」みたいな説明をするわけにもいきませんしね。

もちろん「Hasunoha」では、思う存分思いの丈を吐き出していただいて構わないんですよ^^

この世界では、自分の思い通りになることなんてそんなにありません。
ならば、今在る環境で自分がどう生きるか、そのことだけを考えましょう。
「置かれた場所で咲きなさい」
という言葉もあります。
心を砕くべきは、自分自身の行いです。
日頃の言動や立ち居振る舞いに気を配り、誰かの役に立つような、誰かに必要とされるような人を目指そう。

嘆いていてもしかたがない、あなたを変えられるのはあなただけです。

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おきもち

個別相談可能
様々なつらい別れや痛みを、私も経験しながら今日を生きています。 あなたの苦しさや痛みを共に分かち合い、少しでも和らげることができれば幸いです。
自分自身も重度の知的障害児を育てながら家事と仕事で忙しくしています。 外に出ていることも多いので、なかなか時間がとれないかもしれませんが、なるべく時間が許す限りお話を聞きます。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。周囲に流されず、まずは自分自身をしっかり見直していきたいと思います。

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