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彼女のこと

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3年付き合っている彼女がいますが、今年になって更年期障害鬱になったと言われ、予定もドタキャンされ、それ以降会うことができなくなりました。

自分に余裕が無いので、元気になったら連絡するとは言われましたが、最近はメールをしても返信がなく、9月に私の誕生日メールをもらって以降、2か月近く音信不通です。
彼女は酒好きなのですが、先週末、共通の友人に会った際(その友人は彼女との関係を知りません)に彼女から連絡があって何人かでお酒を飲んだと言ってました。
正直びっくりしました。
体調の問題で連絡が取れないのかと思っていましたので、自分と連絡をとらないだけで、他の人たちとは普通に接しているのだと。
またいつか会えるようになるかどうか、この状況だと難しいのかもしれないと、いろいろ考えると気持ちが不安になって自分も憂鬱になることがあります。
自分としては年内は待とうと思ってますが、それまでに一度も連絡がないようであれば、あきらめるしかないでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたが今、彼女にとって「彼氏」かどうか。

彼氏・彼女というラベルよりも実生活で彼女があなたの彼女になっているかどうか。
あなたが頼れる彼氏になれていたかどうか。
そこが問われているのだと思いましゅ。
実生活であなたがやさしい彼氏的な役割を果たしているかどうかです。
相手にも選択権があります。
結婚している訳でもないのですから、自由な人生の選択権があります。
あなたが頭の中で「オレは彼女の彼氏だぁ」と思っていても、実生活で彼女がそう思っていないで別行動していたら実質的におたがいだんだん彼女、彼氏ではなくなりつつあるという事。
人は情報を真実だと思い込みやすいものです。
悪い喩えですが、単身赴任から帰ってきた夫が、子供をだっこしたら「昨日はウチにもう一人のパパが来てたよ」という話はよくあることです。(うん、ひどい喩えだ)
もちろん、あなたの彼女がそうだという事はないでしょう。ですが、そうなる前に、二人の関係をきちんと見つめ直して、本当にどうあるべきかを問い直す時期でもあるというわけです。
情報よりも事実の方がすでに答えを示してくれていることがあります。
冷静に見つめましょう。
そこに過剰に自分の価値観、嫉妬などの感情を交えずに、実際の事実にその答えを教わるという事も一つの選択であると思います。
彼女彼氏でいるという事は「義務・責務」ではありません。
義務的になったらお互い苦しいもの。
こう言っちゃなんですが、別れちゃった方がお互いの為という場合だってあるのです。
お酒が好きな彼女があなたではない男性と飲んでいるというのも、それも彼女の選択です。
別に彼女が悪いわけではありません。みんなそれぞれそれぞれの人生があるのですから、それが面白くなければあなたの方から離れていけばよいのです。
人生は人に依存する事ではなく、それぞれ自分が自分としてしっかり生きていくことです。
あなたにとっての本当の損ない、損なわれとは、彼女がいなくなることではありません。
あなたが彼女にすべてを任せて依存していて、それを失った時にポッカリしてしまう事のほうが、損ないです。
仏教はあなたに強く生きていてもらいたいと願うものです。
あなたがどう転んでもそれは損なわれではなく、授かりなのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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