娘の死、その後
3月に娘が亡くなってからお世話になっております。
2ヶ月数日後の先日私の祖母が亡くなりました。95歳でした。
生前、私共夫婦、長女、二女で入院先にお見舞いに行っておりました。
長女が亡くなってから祖母は、順番が違う、一人でかわいそうだと泣いていました。早く行ってやりたいとみるみる弱くなっていきました。
きっと長女の側に居てくれるんだと思います。
続けて悲しむわたしの姿を見て二女の気持ちが心配なので心配させないようにしたいのですが、空回りしているような気がします。
長女に手を合わせて落ち着かせていますが、手を合わせる際には念仏を唱えるのでしょうか?
長女に話しかけたり、近況を話したりしますが本来長女にしてあげることは何かと思いまして聞きたいと思います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
本音を語ること
ご愁傷様です。
二女さまのことを気遣って、じゅんち様ご自身が、心から長女様と祖母様お二人の死を悲しむことができないのではないか、と心配しております。もし可能であるならば、子どもさんを亡くした親の会などに参加されてみてはいかがでしょうか。ネットで調べましたら広島ですと下記のようなものがございました。このような会は合う合わないがありますので、あくまでご参考までに。
※新興宗教などの会ではないようです。念のため
http://www.geocities.jp/toshihico12/oyanokai.html
ご主人と一緒に行かれることも良いことですし、あえて別々に行かれることも良いことだと思います。
長女様に本来すべきことは「あなたがいなくて悲しい」など、心の一番奥にある、誰にも言えない本音を語ることでは無いでしょうか。仏教の教義的ご供養は僧侶のつとめなのですから、それ以外の毎日はどうぞご安心なさってください。
その後、お気持ちや時間に余裕があると感じられるようになりましたら、「お勤め」もされてみてください。お仏壇では、お戒名(法名)の上に南無(ナム:尊敬いたします、お慕いいたしますなどの意味を持つ仏教語)をつけて、南無○○童女などのようにお唱えすることが一般的だと思います。それぞれの御宗旨でお念仏やお題目、ご真言などを唱えることもとてもよいご供養になります。
また、私がおススメしているのは、お仏壇にあげたお水を、そのまま流しに流すのではなく木や植物に差しあげることです。これからの季節、青々とした葉が育ったらうれしいですね。
忘れない、思い出す
じゅんちさん、こんにちは。
ご息女、そしておばあさまのこと、お悔やみ申し上げます。
きっと長女さんのそばに居てくれているのでしょうね。
さて、“本来長女にしてあげることはなにか”とのご質問ですが・・・。
それは「忘れない、思い出す」ことです。
これからもさまざまな機会にふれ、じゅんちさんは記憶が蘇るかと思います。次女さんが成長したとき、テレビで学園もののドラマを見たとき、だれかの結婚式・披露宴の呼ばれたとき、お葬式に行ったとき。
「長女さんの場合」をイメージするかと。もしあのまま成長していたら・・・。
もちろん、おばあさまに関してもそうです。元気なままだったら・・・。
ふつうに“話しかけたり、近況を話したり”することも私がしてあげられることです、そして「忘れない、思い出す」ことも私にしか出来ないことです。
ポイントは「私にしか」出来ないところ。
お墓ってただの石です。お経本ってただの紙切れです。でも、そこに意味をもたせるのは、「私にしか」出来ないことです。それが人の願いや祈りというものです。具体的に言えば「忘れない、思い出す」でしょうか。
家族の誰かとその想いを共有することは出来ますが、それぞれに違う人間なのですから、まったく同じではありません。悲しみ方、人生が違うように・・。
話をしたり、ともに涙したり、心配かけないように気を遣ったり。家族は近くにいながらも、遠い存在かもしれません。
長女さんも、おばあさまも、遠くへと行ってしまいました。
じゅんちさんが「忘れない、思い出す」ことが、彼らのためになります。長女さんが生きていたという事実、おばあさまが成長を見守ってくれていたという事実、の証拠なのですから。
そしてまた、実感が伴わなくても、遠くへ行ってしまったけれども、近くに感じることが出来ている証拠でもある。そう思います。
もちろん、人の記憶は薄れていくものですし、急に蘇るものでもあります。個人差もあります。
この点については、おそれないでください。「忘れない、思い出す」は自然なものです。おそれるようでしたら、毎朝お写真を見て拝む、挨拶をするなど、されるのが宜しいかと存じます。
子は善知識
お嬢さんが亡くなって間もなく、お祖母さまが亡くなられたのですね。
書かれた内容から、お祖母さまは高齢であっても頭はしっかりしておられたようですね。
自分より年少の者が亡くなることを「逆縁」と申しますが、孫を亡くしたお祖母さまの悲しみも、また深いものだったと思います。
まさしく、自ら孫のもとへ往くことを選ばれたのだと感じました。
長女さんに、何をしてあげればいいのか、とのお尋ね。
南無阿弥陀仏のお念仏にしても、南無妙法蓮華経のお題目にしても、あるいはアーメンであっても、じゅんちさんの中に確固たる信心が無ければ、何を口にしてもご自身の心に響かないのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
今回は、詠み人知らずの古歌をお伝えいたします。
「夢の世に あだに儚き身を知れと 教えて帰る 子は善知識」
「先に亡くなった我が子は、私に大切なことを教えてくれた善知識(先生)であったのだ」という意味です。
「亡くなった方に何かをしてあげたい」というのは、人として当然の思いです。
しかし実際には、何をしてあげることも出来ないのだ、とも思います。
その「何かをしてあげたい」という思いを通して、自らが大切なことに気づかされること。それが、「大切な方の死を無駄にしない」ということだと私は考えています。
とは言っても、まだ悲しみから間も無いのですから、どうぞ焦らないで下さい。