hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

お坊さんに質問です

回答数回答 2
有り難し有り難し 60

(こちらの質問は編集部で一部変更しています。)

私の両親はずっと先祖供養をしており、何も疑い無くやっていました。

主人は反対で結婚前にやめてほしいと言われていました。

お経を読むのは人の自由なのに、なぜ?と聞くと、ある宗教ではでする必要がないと言われます。

結婚して名字が変わった瞬間に色々とトラブルに見舞われ、私の性格は元々攻撃的でしたがひどくなりました。
離婚をしたら何か変わるのでしょうか?

その会ではお経を読むのはそんなにいけないことなのでしょうか


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教であっても冷静に精査する時代

うちのお寺に新興宗教がよくやってきて「入りませんか」と口説かれます。
「その前に、ネットでアンタら評判スゲー悪いから、もっと内部改革をして、世界的に認められる宗教になれ」と勧めて追い返しています。
今は宗教に限らず、商品もサービスも羊頭狗肉。中身が別物が多い世の中です。
これは仏教であってもそういう場合がある。仏教系のカルトもあるのです。
宗教と称しつつ本質はカルトやその団体の教祖の単なる「個人思想」である場合もあり、万人に通じない教えであったりします。
宗教の見極め方は「変な規制がない」ことを基準に選ぶと良いでしょう。
まずは、冷静にモノを観る自分の眼力が先ではないでしょうか。
でないと、組織のルールに染まる。言いなりになる。
コンビニやスーパーは相手を選びません。
お前たちは入るな、お前たちにはうちの店の商品は売らんなどという事がありましょうか。
「自分達以外は間違った教えである」とか洗脳しません。そもそも根本が宗教性ではないものであったりします。そういう所を見極めませんと、世の中にはいわゆる営利目的の宗教も数多く存在しますから、お金ばっかり持っていかれるという事があります。

仲良く、相和して、争いを避けるのが宗教心です。
勿論、誰がみても良からぬこと、悪、不正には立ち向かうべきですが。
眼は何をみても嫌わない。耳は嫌いな人の言葉でも、その通りに聴く。中国や韓国がキライという人でもラーメン、ギョーザ、キムチは口に入るものです。
頭の中で人間の勝手な垣根を作るのが思想。それを取り払って自由になれるのが宗教性ですが、いまや宗教の多くは、心の垣根を作る思想団体が多いものです。
宗教という言葉を忘れて、ただの人になって見ると良いのではないでしょうか。
新興宗教とは、最近できたものです。
宗教の前に人間の生活がありませす。人をよくするのが宗教です。宗教で生活や人間性が悪くなったらそれは効かない薬、毒です。

苗字が変わったから人生が変わるというのは正しい思考ではないと思います。
そういうもののせいにはしない方が良いでしょう。
あなたはあなたでご飯を食べている時や電話している時や、寝ている時も名前なんて忘れているはずです。
誰もが、一度、ただの人にかえって、冷静にモノを観るべき時代です。
私も所属している宗派がおかしなことになりだしたら、あるべきカタチを問います。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

一言だけ。

特定の宗教についての良否は語りませんが、法華系なので一言。
まずは、ご先祖のご供養をされることはいけないことではありません。
ご自身もそれを信じて来られたのですから、それに信仰の自由はありますから、それでいいと思います。

ご主人がやめて欲しいとのですね。
それは、話し合ってください。ちゃんとご主人が納得できなれば、あかさんの信仰心が問われるだけです。

それよりも、
>結婚して名字が変わった瞬間に色々とトラブルに見舞われ、私の性格は元々攻撃的でしたがひどくなりました。
この理由はなぜですか?そうような信仰指導をされているのですか?

>離婚をしたら何か変わるのでしょうか?
だったらなぜ、ご主人と結婚されたのですか。縁あって尊き家庭を持たれたのではないでしょうか。

ちょっと厳しい言葉になって申し訳ありませんが、信仰のせいにしないで、自分自身で道を開かれたらいかがでしょうか。
もちろん、このアドバイスはスルーして頂いて結構です。

{{count}}
有り難し
おきもち

日蓮宗のお寺で、名古屋市南区にあります。 ”お寺は生きている人のためにもにある”と発願し、法筵寺を新寺建立。住職として41年になります。どこまで、その思いを達成しているか分かりませんが、少しでもお釈迦様、日蓮聖人の教えに触れて頂けたら思います。 FB https://www.facebook.com/kaisho.suzuki 法筵寺FB https://www.facebook.com/houenji/ 日蓮宗ポータブルサイト内 https://temple.nichiren.or.jp/3031069-houenji/

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。
厳しいお言葉でしたが、嬉しかったです

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ