記憶を消したい
何十年も前に受けた性暴力の記憶が今もよみがえって苦しいです。
私の身体は不浄だという思いにとらわれます。
もう人生も半分以上過ぎているはず。このままこの記憶に苦しめられるのは辛いです。
記憶を消したい。
迷いまくる40代
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
体は、蓮の花のように、いつでも生まれ変わって咲いている。
記憶から自由になれる禅の修行がありますのでご安心ください。
以下の事を参考に、記憶から自由になりましょう。
まず記憶というものは、忘れている時は記憶といってもまるで心身には機能していないものなのです。
どんな記憶も、今の現実を生きている中で、思い出してさえいなければ、影すらないし、どこにもない。影響すらないことをまず知っておきましょう。
記憶を3つに分けます。
①自然にふわっと出てきてしまう記憶(フラッシュバック)
②その記憶が自動再生され継続してしまう状態(記憶のリプレイ)
➂その記憶を嫌がったり、悪く考えたりしてしまう(記憶へのジャッジ)
人が記憶に苦しめられるのは②③の時です。
つまり①の時は、苦しみは生じていないのです。これは本当です。よーく見抜いてください。
坐禅や瞑想をするとこれが理論ではなく、本当にそうだと実感できるようになります。
今後①が生じた時こそ、あなたの人生が生まれ変わる瞬間です。
①の時、嫌がらずに冷静に、目と耳を使って、3つの物事、対象物に意識を注ぐだけでいいのです。
目の前の事実に意識を注いで、記憶②③の世界や想念=シンキング・マインドに旅立たないようにするためです。
例 台所なら1冷蔵庫 2ゴミ箱 3キッチンペーパー … と、事実に眼を向けるのです。
それだけで①は消滅します。
ここで、あなたは記憶に勝利します。
自分が不浄であると思っている姿も実はあなたの②③のなせる業です。
①が無くなるということは、②③もなくなるのです。
貴女は何も汚れていません。
手だって洗えば綺麗になります。髪の毛だっていとつでも生え変わってます。皮膚も体の組織も科学的にもいつでも刻々と古い細胞は死滅しています。20年前のあなたもとっくに消滅していて、あなたはもうすでに今の新しい貴女なのです。
今も新しくいつでも瞬間的に体の全てが細胞レベルで生まれ変わっているということが、確かな真実です。
思いを通して物事をみることは、事実を枉げてみることです。
記憶は、消す必要はありません。
出てきた時にだけ、①を相手にしなければ貴女は救われるのです。
数回、実践してみて、自分が記憶から自由になった事に確信を持ってほしいです。
今、あなたは生まれ変わりました。もう、どこも汚れてなんかいません。
今から、いつでも新しい今を、もう、新しく生きる生き方を選択しましょう!
今のあなたが大切です。
鬼子母神という神様を知っていますか?
鬼子母神が仏教の神様になるまでのエピソードとしてこんな話があります。
鬼子母神には500人とも1000人ともいわれる子供がいて、その子らに乳を飲ませるために人間の子供をさらって食べていました。
困った人々がお釈迦様に相談に行くと、お釈迦様は鬼子母神が一番可愛がっていた末っ子を神通力で隠してしまいました。
可愛がっていた末っ子がいなくなって慌てた鬼子母神は、ありとあらゆるところを探しましたがどうしても見つかりません。
困った鬼子母神は半狂乱になりながらお釈迦様のところに行きました。
「我が子がいなくなって困っています。」
それを聞いたお釈迦様は、
「1000人もの子供がいながらその中のたった一人がいなくなっただけでそれほど悲しむのなら、1人しか子供のいない親の悲しみはどれほどか。」
と鬼子母神をいさめました。
それを聞いた鬼子母神はこれまでの自分を悔い改めて仏法に帰依し
「これからはすべての子供を護ります。」
と誓い、今では仏法の守護神として名を連ねています。
さて、鬼子母神は今でも悪鬼でしょうか?
確かにしたことは悪いことかもしれません。
一度したことは取り返しがつかないのかもしれません。
罪は罪として認めなければいけないことは確かです。
ですが、子供を食べていた時の鬼子母神と、改心してすべての子供を護ると誓った鬼子母神は同じ人各なのでしょうか?
いいえ。
同じ姿形をしていても、心が変われば「全くの別人」です。
たとえ、生まれてこのかた貞操を守り続けている人がいたとしても、その人の心が不浄ならば、その身体も不浄なものになってしまいます。
その逆もまたしかり、心が清らかであれば身体もまた清らかです。
あなたの過去は存じませんが、あなたが性的暴力を受けた側ならば尚のこと、あなたには何の落ち度もありません。
あなたが不安を感じながら誰かに接すると、その相手にも不安が伝染してしまいますよ。
あなたに愛する人がいるならば、純粋に思いを向けてあげて下さい。
あなたは決して不浄ではありませんよ。
「不垢不浄」
真魚月様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
まず、仏教においては、心身ともに、「浄であり、不浄であり、浄であって不浄でもある、浄でもなく不浄でもない」というものであると説くこととなります。また、例えば、般若心経では、「不垢不浄」とも説かれています。
ただ、このことだけでは、仏教はなんといい加減な教えかと、不定主義に捉えられかねない恐れが出て参ります。そのため、仏教をしっかりと学ぶことで、その誤解も払拭させていかなければならないこととなります。
とにかく、少し先どって簡単に結論を述べさせて頂くならば、それらは、「浄」、「不浄」とも、実体としてあるものではないということを示すための方便としての教説となってございます。
真魚月様の身体も心も、もちろん、実体として存在しているものではありません。かと言って、何も無いわけではありません。現に真魚月様のお身体、お心は今まだまさにございます。ございますが、そのありようは「縁」によるものとして成り立っております。もう少し詳しく申しますと、モノ・コトは、全て因縁(原因と条件)により成り立っている「縁起」なるものということになります。
「縁」によるものである以上は、善き縁、あるいは善き因によることにより、善き赴きへと向かわせることもできるものである次第でございます。
残念ながら性暴力という悪い因縁により、今現在も真魚月様はそのトラウマに苦しまれている結果になられてしまわれておりますが、しかし、それも実体として、永久永遠に変わらない何かとして成り立っているものではありません。
つまり、逆に善き因縁をしっかりと調えていければ、その結果はこれからいくらでも変えてやることだってできるということでございます。
その最善の因縁とは何になるのかと申しますと、やはり、仏教的にはもちろん、仏教を学び修していくこととなる次第ですが、とにかく様々な苦しみにも必ずその因縁があるため、その因縁を見極めて、しっかりとより善くこれからの因縁を変えてやることができていければ、しかるべくに苦しみも無くすことができるということになる次第でございます。
どうか、その苦しみを乗り越えていくための智慧を仏教から少しずつでも学び修して頂けましたら幸いに存じております。
川口英俊 合掌
身体は不浄です。
仏教では、身体は不浄であると気付くことが修行の一つです。
ですから、身体が不浄だと思えるのは、仏教的には才能の一つと言えます。
残念ながら、記憶を消すのは難しいでしょう。
もはや、その記憶もあなたの身体の一部なのですから。
あきらめてください。「明らめる」ことは不幸ではありません。明るくなるコツです。
質問者からのお礼
願誉浄史さま。
早々にありがとうございました。
記憶にとらわれ、この先も生きていくのかと絶望的な気持ちになっておりました。
それでもいいと認めることが自分を認めることだとしたら、私は生涯自分を認めることはできないのではないかと。
そもそも身体は不浄だと、あきらめてしまえたら、それはそれですごく気持ちが楽になるように思います。
丹下覚元さま。
ご回答ありがとうございます。
①と②と③はほぼ同時に来て、同じものだと思っていました。
不意にくるフラッシュバックと、憎しみと、絶望感。です。
①では苦しくない。とのこと、やってみたいと思います。
続けることで何か変わっていけたらそれでいいかと。
この身体をもってなんとか生き続けることができたとしたら、それで充分と思えます。
小原観慈さま。
ご回答ありがとうございます。
鬼子母神の話、存じておりました。心の持ちようとゆうことでしょうか。
この記憶が苦しいのは、加害者への嫌悪と恨みと消えない感触への絶望感があるからです。
どこに救いを求めても、この心の持ちようは変わることはありませんでした。
これからも変えられる確信は持てません。
ですが、どこの誰かもわからない私の吐き出しに、不浄ではないと言い切ってくださったことが、とてもありがたいことでした。
人と深く接することは恐怖でしかありません。そう見られないようにしていますが。いつか恐怖心なく人と関わることができるといいと思います。