信仰心がある、信心深い、と言われるのですが..
お寺が好きで、仏様のお顔をみると癒されるので時々御参りしています。
何の知識もなく、ただなんとく好き、あの空間が好き、ってだけなのです。
行事が気になって、それ目的に参拝することも..
それでも、御参りしているといろんな御縁を頂きありがたく思う事もよくあります。
また、御参りする中でいろんな事に興味がわきネットで調べたり、時には図書館で本を借りたりするのですが、難しいことばかりな上に覚えが悪く右から左な事ばかり。
こんな話を、出会った方や知り合いにしていると「信仰心があるのね」「信心深いね」と言って下さるのですが..自分ではそう思わないのです。
「信仰心」「信心」調べてみても、自分に当てはまるように思わなくピンともきません。
自分にその気持ちがない時点で、信仰心があると言うにはほど遠いとも思います。
みなさんの言って下さる「信仰心」「信心」とは何なんでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
信心とはそれぞれです
拝読させて頂きました。皆さんがおっしゃる信心や信仰心と本当の信心とはやはり違いがあるでしょうね。
ただやはりあなたが仏像が好きで見に行ったりすることはあなたの興味関心以上の何か惹きつけることがあるからかと思います。
仏像にはその製作者が本当に求める仏の姿が形として表されています。
ですから仏像にはその製作者の仏への畏敬の念や信仰心に根ざした痕跡がありありと残されているのです。
そして見る私達にその有り様をしっかりと伝えてくれているのです。
ですから私達の信仰心が芽生えて育まれていく要素となるのです。
自分では気がつかないかもしれませんが、仏像を見る中で私達にとって理想とする人の有り様や悟りの境地を感じる中で信心が育っていくことも充実に考えられます。
別に人からとやかく言われることでもありませんからこれからも仏像をおがみながらご自分の精神世界を育んでいってくださいね。
あなたがこれからも仏様のお導きを正しくお受けなさってくださいます様にと切に仏様にご祈念申し上げます。
それも一つの機縁、仏縁として
ひちゃ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
世間の皆様の考えられるような信心、信仰とは、敬虔なるもの、尊いものへの純粋で熱心な礼拝、崇拝といったところになるでしょうか。
仏教でももちろん、信心・信仰は大切なことになります。
しかし、盲目的、妄信的な信心・信仰とならないようには、気を付ける必要がございます。
ただ畏れや尊敬だけをもって、仏教の教えも受け入れていくべきではなく、あたかも金細工師が、その扱っている金が本物か偽物か、その金を焼いて、切って、磨くことなどをもって慎重に吟味するように、そのようにして仏教の教えも合理的に検証していった上で、納得して受け入れて実践していくことが大切となります。
今はまだ何となくの参拝であっても、是非、それも一つの機縁、仏縁として、いずれは、仏教の教えをしっかりと学び修していけるようにも調えていって頂けましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
一向寺様、往生院六萬寺様
お忙しい中のご回答ありがとうございます。
今は、ただなんとなく好きで癒されるだけの私ですか、お二方の回答にありました「正しく受ける」「納得して受ける」少しずつでも仏様の教えを学べればと思います。
無理矢理、意識的にではなく、なんとなく仏様のお顔をみたくなるように、なんとなく仏様の教えを学びたいなと、自然に身を任せてみます。
本当にありがとうございました。