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問答

回答数回答 2
有り難し有り難し 195

毎日全部読んで勉強してます。質問する人も答えるぼんさんもみんな素敵です。色んな悩みがあるのに一生懸命生きてるから素敵です。私の質問はいつもぽんこつです。問答ありがとうございます。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

質問・相談・対話・確認・嘆き・怒りetc

hasunohaの問答には色んなタイプがあります。

いい質問をしよう

と思ってもできません。相談しようと思って相談内容が出てくるわけではありません。

質問せずにおれない、相談せずにおれない、切実な悩みや苦しみから出てくる問答が ま。様にとって魅力的に見えるのかもしれません。

では、ま。さんの問答はぽんこつなのか。

そういうわけでもありません。

hasunoha問答にはタイプがあります。役割があります。求めているものがあります。使い方があります。

切実な悩み苦しみの解決方法を知りたい
切実な悩み苦しみをただ聞いてほしい
何気なく感じたことを話す相手がほしい
誰かから認めてもらえる一言がほしい
日常では自分を表現できる場がない中でここで表現したい
質問することで自分の思いを確認したい

まあ様々です。何気な~い事をずっと質問し続けて、やがて去って(卒業して?)行く人もいます。一発で苦しみ解決のヒントを得てスッキリしていく人もいます。あたたかい心地よさを感じながらも、このままでは依存になると自らを律し、厳しい世間にまた一人立ち向かう決断をしていく人もいます。

ま。様の使い方でよいのです。心配しなくてもここには対機説法に秀でた高僧方が控えています。私もいつも拝読し、

なんて上手にお答えするんだろう!
相手をきちんと認めながらも、よりよい導きを与える回答だなあ!

と感動しています。

安心して身を委ねてください。人と比べることはありません。人と比べて悩んで相談してきたのに、相談の仕方を比較してさらに悩んでは元も子もありません。

使い方・求めるもの・卒業の仕方

は、 ま。様次第です。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

ポンコツであるように見えても

道に何かおちています。
何だろう?
拾ってみると、何かの部品です。
一見すると役に立ちそうにない。
ところが、それはポンコツではない。
高級車やパソコン、スマホを一つ一つ分解すれば一つ一つでは役に立たないような、ポンコツに感じるものもあるかもしれません。ですが、どれ一つとしてその部品が無かったら、成り立たないのです。
あなたが、ポンコツだと思っているものはあなたという最高の自分自身を組み立てている大切な一部です。大切な疑問です。実際にあなたは今変わっていっています。
さらに、そういう自分をいたずらに卑下するような言い方も止めましょう。
いたずらに謙遜しても、傷つくのはその人だけです。
禅では師匠から弓を半分にへし折ったモノを渡されます。
シッペイといいます。
一見するとガラクタ。
それを巧みに用いて人を救ってみよ、と力量を試される儀式があります。
自身を支えてくれた存在をポンコツ扱いしてはいけません。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

自分なりのスタイルでやります。

お返事ありがとうございます。

ありがとうございます。

マイナスな言葉を言わないようにしたいです。

お返事ありがとうございます。

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