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冷静になれない

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私は普段はおとなしく、人とケンカになったりすることも全くないのですが、学生時代、毎日毎日悪口を言ってくる相手に我慢の限界に達し、暴言を吐くようになりました。

それ以来私は言葉遣いを何度注意されても、一度キレてしまうと冷静になることができず、また相手もすぐキレる性格なため、その後もいじめはエスカレートし、暴力・ストーカー行為など卒業後もたびたび私への嫌がらせが続いています。

今年上旬には、私に呪いをかけたとの発言もあり、その呪いのせいか仕事のストレスなのか、私は統合失調症を発症し、相手は腕の骨を折る怪我を負いました。

もっと冷静にハッキリやめてと言っていればただのいじめがこんなに長く続くことはなかったのか、もうどうすればいいのかわかりません。

今は静養しながら病院に通っているのですが、もし病気が治って社会復帰を成し遂げても、イジメの当事者の報復行為や街で相手と対峙したときにまた私自身が暴言を吐いて無駄な憎しみを増やしてしまうのではと不安になります。

今後、お互いが平和に暮らして行くためには、この問題をどう対処したらいいでしょうか。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

同じ土俵にのぼらない

結論:相手の自我に対しては自我で反発しないこと。こちらは無我で対応・応答・対処することです。
「自我VS自我」 の 図式になると争いになります。
相手の自我には、無我、無私で対処することです。
おそらく、相手はあなたの反応を楽しんでいたのでしょう。
あなたが過剰に反応、リアクションを起こしてしまうからいけないのです。
これはあなたにとってもストレスになり、相手にとってはオレの行為することに「反応してくれた」と捉えられ、エサを与えることになります。あなたに好意があるか、ぶっちゃけ変態でしょう。それこそ相手の思うつぼです。
相手の居ないケンカはできないものです。
あなたも「冷静になれない」とおっしゃいますが、これは気づきにくいことですが、冷静になれない…という選択肢をあなたが選択してしまっているのです。
今、冷静にもう一度選択肢の視野を広げてみましょう。
あなたは自由です。何をしたって良いのです。
これからの選択は「冷静を装ってでも、相手にしない、同じ土俵にのぼらない」「警察に通報」「相手の親に電話」「誰かに助けを求める」など、無限に自分を守る道があります。
それよりも何より、あなたが、イヤな反応をしたり、表情を変えたり、感情的になる事が相手が一番楽しんでいることです。
「自分の中の執着をゆるめる」
相手から自由になる事を選択するべきです。
相手は自信がないので、あなたを自分と同じレベルに引き下げてこようとしているだけです。
まずは、あなたの中で、相手に対するイライラ、ムカムカ、カリカリの執着を緩めて、自分の身心から放す、離してください。
これから万が一ばったり出会ったとしても、
一切、感情的な反応をしないことです。
大きな音のでる小型警報を身につけるのもいいでしょう。
なるべく反抗、反発、反撃、反応、リアクションを示さないことです。
自我に対して、自我でぶつかってはいけません。
自我に対しては、無私、無我で接することで相手は屈服します。
おそらく相手は、不幸でみじめな人生を送ってきたのでしょう。
そこを見透かすことです。
合掌一礼をして相手のよりよい人生を祈るくらいのつもりでいてください。
相手に恥を感じさせるには、尊重を以って合掌一礼をすることです。
おそらく相手は自分があなたにしている事が恥ずかしくなるでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

頭で考えないこと

普段はおとなしい性格とのこと、きっと心の中で色々考え込んでいるのでしょう。その考えが我慢の限界にきて爆発してしまうのでしょう。
大切な事は、なんでも頭で考えることを止める。考えない練習をすることだと思います。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

のぶえさん、こんにちは。

悪口に爆発して暴言を吐いてしまった。
それに対する嫌がらせで病気を発症して、相手に暴力で怪我をさせてしまった。

そういうことですね。

ちょっと厳しいかも知れませんが・・・

「悪口」=「暴言」
「嫌がらせ」=「暴力」

同じではありませんか?

あなたが受けた心痛はお察ししますが、結果あなたはその相手と同じ事をしていると言うことではありませんか?

同じ力に同じ力で対抗してしまうと、いつまでも対抗してどんどんエスカレートするだけで良い結果は生まれません。

自分が嫌だったと同じだけ、いや、それを繰り返すならそれ以上に、相手も嫌なのです。

ものごとを納めるとは、箱の中に2つの違う形のものを入れるのに似ています。

出っ張っているところと引っ込んでいるところが相手と同じでは上手に入れることは出来ません。

それと同じように、相手が出てくると同じところを出したのでは、ぶつかるだけで受け流すことさえ出来ません。

一番良い方法は、街で会ったなら怪我をさせてしまったことを誤って、少しでもあなたの側からの出っ張りを自分で取り除くことです。

だからといって、あなたが小さくなってしまうわけではありません。

自分の非という負担を軽くすることで、あなたの気持ちが軽くなります。
気持ちが軽くなれば、また違う柔軟な考えも生まれてきます。

この相手との場合だけではなく。
自分の心の持ちようで、ためて爆発させてしまうか、少しずつでも発散してためないようにするかが決まってきます。

育ちも環境も違う中で育てば性格が違うのは当然ですが、
嬉しいことをされれば喜び、嫌なことをされれば怒る。

あなたも相手も同じ人間なんだと言うことを忘れないで下さい。

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質問者からのお礼

丹下覚元住職、邦元住職、ご回答ありがとうございます。お二方のご回答を読み、本当にその通りだと思いました。
今後は相手に対して広い心を持って、無我・無私の精神で、余計な考えは起こさないよう日常生活で練習をしていきたいと思います。ありがとうございました。

小原観慈住職、ご回答ありがとうございます。相手の悪口に対して暴言で対抗してしまったことは、私の至らぬ点であり、改善しなければならないところです。
小原観慈住職のご回答に「嫌がらせ」=「暴力」とありますが、私はこちらから暴力をふるったことは一度もありません。相手の怪我の原因は車と衝突したことによる事故だったと聞いています。
ですが私の暴言によって呪いをさせてしまったので結果私が怪我をさせたのと同じことなんだと思います。
今はまだ思考が正常を保っていられないため、相手に会っても歯向かうようなことばかり言ってしまいそうですが、もう少し落ち着いて相手に謝る機会があったらきちんと謝りたいと思います。

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