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自分は許されなかったことを堂々としている他人が憎い

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有り難し有り難し 33

この思考が自分ですごく嫌です。
いじめや虐待の連鎖につながる思考だと思うからです。
しかし、自分だったらこうはしないのに、という思いを他人に強く感じてしまいます。

例えば、しょうもないのですが、
歩道ですれ違う際に、こちらは道の端に寄ったのに堂々と真ん中を歩きぶつかってくる年配女性などが許せません。

電車などでワガママで騒ぐ子供も、なんであいつは殴られたり人格を否定されたりしてないんだと腹が立ちます。

先日は少しよそ見して運転をした彼氏に怒って楽しかった日を台無しにしてしまいました。

自分の基準が厳しすぎるのは自覚があります。
それを他人にぶつけるのは、八つ当たりだとも頭では分かっています。
が、悪いことをするやつは髪の毛をつかんで地面に叩きつけてやりたいくらいの怒りがこみ上げます。

心の底では、私は母から死ぬほど厳しく罰せられてきたのに他人は許されているのか、納得がいっていません。
私は母のストレスのはけ口でした。

どうしたら、他人の中に一定の「悪さ」を見た時に冷静になれるでしょうか。
どうしたら、自分が叶わなかったことを他人がしていても嫉妬したりせずにすみますか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

母ちゃんからリアル出家のススメ

たとえば知り合いにお寺のお嬢さん♀がいます。お寺のお坊さん♂もいます。
お坊さんなのに、親子関係ってスゲー最大難関門なのです。
ですが、それを断ち切らんと本当の意味で出家できんのです。
カンタンに言うと、母ちゃんが理想的人格で無かった。あなたに幼少期から八つ当たりしてきた。その時点で母ちゃんには悪いですが、母ちゃんは聖人君子でもなければ立派な母親でもありません。だからと言って憎んじゃダメなのです。その母ちゃんはおそらく先代さんたちに同じような仕打ちを受けた。戦争戦後って、本当に大変なかで育ったので、どうしてもガミガミ、クドクドがよかれと思って悪く伝播してしまった、家庭独自の負の遺産があるのです。あなたはそれをもう受け取らなくていいのです。
ああ、あれは所詮かぁちゃんルールだったのか、と諦めて、いい教えだけは取っといて、自分を苦しめる教えは排除。ものに当たりたいならサンドバッグがおススメです。数千円で買えます。壊れやすいものに当たるよりは、攻撃性を吸収するために作られたものに当たったほうがお互い害がありません。
基本的に世の中の人間でわがままな人間は、幼少期の頃の自分を観ていると思いましょう。まだ、そんなところをうろついているのかと。
そういう人にこちらの要求をぶつけてもどちらかが傷つくだけです。
わがまま人間は必ず墓穴を掘りますからホットケサマでよいのです。

人の非が許せない。
実はそれは、相手の事を自分のフィールドに取り込んでいるからいけないのです。
これをわたくし化、ワタクシ視といいます。
ニュースを見てください。
許せない事件ばっかりざましょ。
全部相手にしていたら身が持たんですわ。
ニュースにならないショーモない事件だって沢山起きてます。
だから、それは当事者間でカイケツして頂くほかないのです。
あなたはあなたを生きる。独立闊歩する。本当の独立とは、自分が自分を生きる。相手が極悪人であってもこちらの要求をぶつけない。冷静に裁くべき所で裁かれるように働きかけるのみ。
世界中の全ての人と、あなたとは別々、べっこです。🐄
あなたはあなた。
そして、お母さんもお母さん。別々、ベッコなのです。🐄モー 🐂モー、カアチャン…
本当に別々何だなぁと思えるまで上記の要点を真言の如く念じてください。
そうする事で、あなたはあなたの新しい人生が始まります。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元 様

ご回答ありがとうございます。
「母ちゃんは聖人君子でもなければ立派な母親でもありません。だからと言って憎んじゃダメなのです」
の一文に、ハッとしました。
母親が立派じゃないことと、憎むこととは別なのですね・・・

そして、
「世界中の全ての人と、あなたとは別々、べっこです。🐄 」
のべこ部分にちょっと笑い、
「お母さんもお母さん。別々、ベッコなのです。🐄モー 🐂モー、カアチャン… 」
でグッときてしまいました。。
まだ、母を慕う気持ちはあったみたいです。

これから心で念じたいと思います。

ありがたいお言葉、ありがとうございます。

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