hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

不幸な人生とトラウマについて

回答数回答 2
有り難し有り難し 22

私の人生ではなぜか、不幸なことがたくさん起こります。

元々人のために何かをしてあげることや、笑顔にすることが好きだったのですが、飼い犬に手を噛まれることがあまりにも多く、うんざりしてきました。
私もきっと、無意識に人を傷つけることはあると思います。自分が蒔いた種なら仕方がありませんが理不尽なことがほんとに多いのです。あまりの不幸さに周りからは「どうしてそんなに波乱万丈なの?」と驚かれます。

この先もこんな風に幸せになれないのでは?何かに取り憑かれているのでは?など考えることもしばしばあります。

また、そういった辛い経験のせいで色々なことを気にしすぎてしまいます。

今で言えば会社でセクハラにあい、ストレスで体調を崩してしまったので思い切って声を上げたところ、相手は他部署に異動。その穴埋めでみんながバタバタしてしまい、悲鳴を上げているのを見て「自分が我慢していれば…」といつも考えてしまいますし、他の人が仕事中にこそこそと話していることも自分の悪口なんじゃないかと気になります。

この先いろんなことを気にしないように、また希望ある未来を生きるためにどうするべきでしょうか。どのような考え方で生きていくのが良いのでしょうか。

ご回答の程宜しくお願いします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

公私 おおやけ と わたくし

多くの場合、女性がセクハラや性的暴行を受けた場合、事件があってももみ消されてしまうのだとか。
あなたのとった行動は正しいと思います。
よく勇気をもって声をあげられましたね。素晴らしいことです。
世の中の泣き寝入りしている女性の支えとなると思います。
ハラスメントはハラスメントです。
会社の上下の関係があっても公私混同をして、部下をいいなりにさせたりという事はあってはならないことです。
その人が他の部署に飛ばされても、その次に力を発揮する人が、
その部署を支えていくものです。それも公私混同してはならないことです。
もし、その人が飛ばされたことで(本当は解雇処分であってもいいと思います)、周りの人があなたを責めるようなことがあったら、その周りの人たちの感覚がおかしいのです。集団催眠、集団悪意、集団連鎖、集団ボケするようなことは実際に恐ろしいことですがあるものです。
もし、職場の雰囲気にそういう所を感じたら、本当に接するべき人を選ぶことです。
何よりも、周りの眼に負けないことです。
周りの目というものの本質は自分の周りを見る眼なのです。
周りの人がこう言っているだろうか、自分は迷惑だろうかと、自分の中でネガティブな思いを起こして自分いじめをすることが周りの目の本質です。その自分の目に負けない様にしましょう。応援しています。いつでもまたどうぞ。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

人生は波乱万丈ですから

拝読させて頂きました。人の人生も周りの世の中のことも天の配剤であり様々な因果関係によって起きていることです。あなただけのせいではありません。様々な原因があってつながりながら起きていることです。
極論を言えば気にし過ぎないことです。自分に多少の関係があるかもしれませんが、あまり気にしないでください。
人の一生は平々凡々の様に思えるかもしれませんが、じつはそうではありません。目に見えなくつもそれぞれに波乱万丈ですからね。目に見える程度か見えない程度なのかの違いですから。
あなたの人生はまだまだこれからです。これから開かれていくのです。どうかやりがいある充実した毎日を送ってくださいね。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ