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引際

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有り難し有り難し 48

同じ処に留まるわけにはいかないのでそろそろ考えないといけないなって思います。どんな最後が私らしいのかなって思います。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分のものはないとわかるとこの世の全てが自分になる。

同じところにいなくてもいいのです。
厳密には毎秒毎秒同じところにはいません。
あなたはあなた。
「いま、ここ、おのれ」は何処に行っても「いま、そこ、おのれ」。
24時間、あなたで無い時はありません。
仕事中もあなた。
仕事明けもあなた。
四六時中、あなたでない時はありません。
そこに自信を持ってください。
仕事の現場で長く携わってくると仕事と自分が完全同化、同期することがあります。
そこを離れるのはある種の切なさのようなものがありますが、私のものはないとしるのが真の自由です。
そこを離れても道を踏み外すことはありません。
そこを離れた途端に今いる、そこ、そのことがあなたなのですから。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

「私らしさ」を超えてゆけ!!

「私らしい」私にとらわれる必要はありません

他の人と違った存在でありたい私

他の人と一緒でありたい私

望むどちらの私も元からこの私に含まれています。望むものは初めから備わっていたことに気づきましょう。
私はどうあがいても私であるという事実。

私しかいない私=固有の私=代わりのきかない私

みんなとひとつの私=普遍の私=平等な存在としての私

矛盾するような二つの私が、今ここに実存しています。それが生かされている私。

バラバラでいっしょ

「私らしさ」を超えていきましょう。

私は私。あなたはあなた。私もあなたもみんなも仏様の慈悲の中

南無阿弥陀仏

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個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

私、大切にします。

お返事ありがとうございます。

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