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信仰、信心について

回答数回答 3
有り難し有り難し 16

はじめまして。
早々ですがお聞きしたいことがあります。

私は神様そのものは信じています。
けれどそれは神様や仏様はいる、とおもっているだけで、信仰しているわけではないのです。
崇め、奉り、敬い、教えに縋りたいわけではなく、
しかしただいるものだとはおもっています。
神仏の教えを素晴らしいものとおもい、そうありたい心が信心、伝え説くのがお坊様、という認識でおります。

そこで、なのですが、
そのような心構えでお祈りをするというのはおこがましくはないのでしょうか。
教えを守る気持ちも、尊ぶ気持ちもない私がです。
信仰心のない者であっても、時には手を差し伸べるのが神仏であると言われればそれまでですが、一方的感が拭えないのです。
見返りを求めていると感じる訳ではないのですが、
お賽銭などはともかく、お願いをするのに私は何もできないのでしょうか。
交通安全や、大切な人が健やかに、そして大切な人が天国で健やかであるようになど、そういう有り体といえば有り体なお願いです。

長々となってしまいましたが、よろしければ、ご回答のほどよろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたの中にいる

どりさん、はじめまして。

仏教ではご利益を中心に説いておりません。

こうあったからこうなった、全てはあなたの在り方があなたとあなたの周りの在り方を決める。

ただそれだけです。

仏や神様が有り難いから手を合わせるのではなく
手を合わせるあなたの姿を神仏は見て下さっているのです。

度合いの問題ではなく、そこにあるあなたの問題。

手を合わせるときの気持ちが、あなたの人生を穏やかにしてくれると嬉しいですね。

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有り難し
おきもち

日蓮宗。倉敷市受法寺住職・岡山市妙立寺兼務住職 1965年生。坊主歴35...

何かできると思っているのが私

>お願いをするのに私は何もできないのでしょうか。

何かしてあげたいと思うのが私達の常なのだと思います。
そこには理由が大きく3つあります。
1つは感謝です。
相手に対して感謝をしているから、「せめてこれぐらいは…」という気持ちです。
2つには自己満足です。
「自分はちゃんとしてやったぞ」という自己肯定をする為に行います。
そして3つに借りを作らない為です。
頂いた恩は返さないと、相手に対して自分は対等ではないように思えて気分が悪いからです。

仏教では、お勤めやお供えなど仏事は「感謝の心で行いましょう」と言います。
僧侶は皆肝に銘じております。
しかし、実際には自己満足の為や自己肯定の為に行っていることもしばしばです。
例えば「毎朝6時にお勤めしてるんだ」とか「本堂はいつもきれいにしてるんだ」と言った時、仏様への感謝ではなく、『俺はすごいだろ?』という意識でいるならば、本来の御給仕とは程遠いものになっていしまいます。

「何かできないか?」と思うのではなく「何もできない私でした」として、できることをなさったらいいのではないかと思います。
神社でお賽銭を投げることも大切なことですし、仏様に手を合わせることも尊いことです。

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有り難し
おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...

願える自分になれるように願う

善良な願いごとであれば、その願いが叶う叶わないはおいといて、そういう善い願いを持ち続けること、持ち続けられる自分であることが素晴らしい修行です。
神仏には、人々の幸せや平和など、善いことを願ってください。
善い願いをもった自分でいられるように、神仏に祈るというより、神仏に誓うような気持ちで拝んでみつはどうっでしょう。

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有り難し
おきもち

浄土宗教師。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための...

質問者からのお礼

善い願いを持ち続けられる自分であること、できることをすること、
なんだか少しはきちんと腑に落ちた気がします。

手を合わせる、ただただそのことが善いことであると仰っていただけるのならば、やはり訪れた際などには静かに手を合わようとおもいます。
そして私自身は、いつまでも、どんな時でも、善意ある人間でいること。
そう在りたいとおもうこと、その為に少しずつでも動くこと。
なんだかきっと、とても他力本願な気持ちでいたのだとおもいます。
神仏に願う前に、私の周りの大切なひとたちを私自身がちゃんと大切にする、そんな当たり前が抜けていたのかもしれません。

お一人お一人お礼をしないですみません。
まとめてになってしまいますが、
皆さまお忙しい中お話し聞いてくだすり、ありがとうございました。

「宗教について」問答一覧

宗教、神道、スピリチュアル

今の世の中は情報で溢れています。 スマホって簡単にいろいろ調べることができて、情報で溢れかえっています。 心がツライときや精神的にしんどいときに、 精神的に弱く強くなりたいなぁ 傷つきやすい性格を変えたいなぁと思い、 検索魔になって検索すると、 あれやこれやいろいろ出てきて、 何が良くて何が悪いわけではないと理解していますが、情報が多すぎて、よくわからなくなってきます。 何がホントなのか?何を信じていいのか? きっと私意外にも藁をもすがる思いで、いろいろ検索する人もいると思います。 (確固たる宗教など崇拝してる方は、このような迷いはないかと思いますが…) 信じたいことだけ信じてればいいのでしょうか? 仏教的な目線は下記のことはどのように思われますか? 全ての出来事は引き寄せ? 出会う人や出来事は偶然?必然? 自分に起こる出来事は必ず必要? 乗り越えられない試練はない? 健康に問題があるときは暗示? 仏様にお願い?神様にお願い? 宇宙に任せる? 自分の胸にすーっと収まった言葉こそがご縁があり、その時に、ん?なんか腑に落ちないなって思う言葉は受け入れなければいいのでしょうか? そのような言葉でも後から受け入れるようになるかもしれませんが… 私自身、家に仏壇もあり仏教ですが、正直、意識するときはお墓まいりや法事の時だけです。ですが、今度はお墓があるお寺に仏教講座があるので、参加しようと思っています。 自分勝手な考え、散文、お許し下さい。 お手数お掛けします。よろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 23
回答数回答 2

信仰ってなんだろう

私は、信仰するということの概念について悩んでいます。何故なら、私は、神様や仏様の存在を信じてはいるのですが、それは人間の心の内にある概念に過ぎず、形而下で捕捉できるものではないと思っており、この考え方が取っ払えない以上は心底から神仏を信仰することは叶わないのではという疑念を抱いているからです。 私がこのような考え方をもったきっかけは、遠藤周作さんによる著書「沈黙」を読んだことです。ご存知でない方に簡単にあらすじを説明しますと、キリスト教の弾圧があった江戸時代に、ある宣教師が拷問の末に棄教したという報を受けてその弟子が真相を求めて来日し、救いを求める弱い隠れキリシタンや彼らを拷問にかける大名と出会いながら、仏教との相違や絶対神の是非について考え、葛藤するというものです。 私がこの小説で衝撃を受けたのは、諸行無常の考えを礎とした仏教を信仰しているはずの大名が、キリシタンだというだけで農民の魔女狩りを行い、キリスト教の弾圧に執心していたことです。 宗教というのは、固まった思想を提示することで人々の心を安定させたり、民衆を統制させる側面があるとは思うのですが、劇中のように政の道具としての扱いにとどまったり、科学が普及した現在において金稼ぎのダシに成り下がってしまったりする宗教文化を多々見ると、もしかして心の底から神仏の存在を信仰することは最早なり得ないのではないか、という疑念を感じずにはいられません。 こうした疑念に輪をかけるのが、自然の脅威です。現在猛威を振るうコロナウイルスや、台風、地震などといった災害は、私たちにとっては害悪でしかなく、早期の収束や撲滅を願われるばかりですが、それらの現象は我々の嘆願とは関係なくただ事実として存在するのみであり、これらを既成の宗教概念によって説明するには限界が生じるのではないかと思います。それを考慮すると、我々に都合の良い神仏への疑念が益々助長されるばかりです。 私は、目的によっては多少の方便は許されても良いと思っていますが、神仏を本気で現実のものと信じている方々のことを考えるとどうしても後ろめたいものを感じます。こうしたことについて、僧侶の皆様はどう思われるのでしょうか。冒涜と思われるのでしょうか。それとも、これも信仰と思われるのでしょうか。 大変無礼な質問であると承知しておりますが、何卒宜しくお願いいたします。

有り難し有り難し 27
回答数回答 3

神を信じているはずなのに~相談します。

私は神の実在を信じています。でも、各宗教の説く信仰の世界になじめず、ひとりでさまよっています。 私の煩悩は「自殺したい」とか「神よ私を速やかに殺してください」と願うことです。 自殺すると仏教で言う「無間地獄」に堕ちると信じるので、具体的にはあの世で自殺霊・地縛霊になり、救われることはないと信じるため、怖くて実行できません。 そんな人生否定の感情や死後の恐怖から生きるとしたら、なんと消極的で暗い、マイナスの人生観・生活観でしょうか? 私は人生の初期に親から新興宗教の経典を読まされ、神棚の前に正座して「人生は苦悩なり」という経文を唱えさせられていたことが、そもそもの間違いの始まりだったのではないか?と思います。 小学生のころから「人生は苦悩なり」と権威をもって教え込まれるのではなく、夢や希望や「わくわくすること」を追いかけてがんばり、その夢をつかむよう教えられるべきだったのでは?と思います。 小中学校時代、その新興宗教の夏季合宿に必ず参加させられていました。 中学に進学したとき無意識に友達の前で「あ~死にたい!」と口にして嫌われました。そのころそんなことを言う子は一人もいませんでした。 高校時代は「自分は不幸だ」と友達に告げて「じゃあ、なぜ自殺しないのか?」と問われました。 大学時代、変な宗教に強引に勧誘され「早く過ぎ去れ、青春よ~!」という歌を歌わされました。 大学卒業後は自殺未遂をして精神科に入院することになり、絶望のどん底でした。 3年後、父の死をきっかけに退院して新聞配達や肖像画制作をしてがんばり、登山までするようになったのですが、15年ほどで体力が衰え、失職してひきこもりになり、医師の診断通り「統合失調症」ということを受け入れざるを得なくなりました。幻覚も妄想もない統合失調症患者もいるということですが、私もそのひとりなのだと思います。 症状は「疲れやすさ」「意欲の低下」「睡眠障害」の3つです。 神への信仰、医療に頼っていますが、仏教文化も私には必要で、多くの影響を色濃く受けています。「般若心経」「観音経」「白隠禅師和讃」を仏前であげることもあります。CD集『ひろさちやの感動するお経』全8巻も繰り返し聴いています。 障害年金で暮らし、身近に相談相手もいない私は母亡き後果たして生きて行けるのか心配と不安で夜も眠れないほど悩んでいます。

有り難し有り難し 15
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キリスト教か仏教か。

いつも、相談にのっていただきありがとうございます。 ストレートで申し訳ないのですが、キリスト教を信仰するか、仏教を信仰するか、迷っています。 キリスト教の教会は10年ほど前ですが、通っていました。信仰告白もして、あとは洗礼を受けるだけ…という所までいったのですが、別れた主人が浄土真宗のお寺の孫でキリスト教なんてとんでもない!と激怒され、そこから疎遠になってしまいました。 仏教はお経を今、私なりの言葉でわかりやすく訳していて、お釈迦様や阿弥陀如来の智慧に向き合う度に泣くほど感動することもあって、とても心を惹かれています。 幸い、わからないことがあったら聞いてくださいねと言っていただける僧侶の方とも出会うことが出来て、何度か質問もしました。 その僧侶の方の人となりだと思うのですが、終始、仏様を信じられたらいいですね。と言ってくれます。 私は仏様を信じたいと思っていますし、お経から導かれたこのご縁を大事にしたいとも考えています。 ただ、どうしたらいいのかわからないのです。キリスト教の時は日曜日の礼拝から始まり、聖書の勉強会を定期的にすることで 信仰を深めて行くことが出来たのですが、仏教は敷居が高いと言うか、私の住んでいる地域では勉強会もないですし、法話会もこのご時世なのでやっていない所も多く、やっていても都合が合わなかったりでなかなか信仰が深められません。 そんな時にクリスチャンの友人からまた、教会に行かない?と誘われました。 私の気持ちは仏教に傾いているので、教会に行く気持ちはないのですが、正直揺らいでいるのも事実です。 どうしたら、今ご縁がある僧侶の方に仏教を信じたい!仏教の勉強がしたい!という私の気持ちが伝わるのでしょうか? 仏教の勉強が出来るサイトや学校みたいな所も見つけたのですが、お金がそこそこかかるようでカツカツで暮らしている今の現状では厳しく…。 内容が前後して申し訳ないのですが、ご縁があった僧侶の方には信じたいということも、もっと勉強したいということも伝えています。それでも、返ってくる言葉は「信じられたらいいですね〜」という感じで、最近は私と関わってしまったことを面倒臭く感じているのでは?と思うことしきりです。 長文駄文失礼しました。 よろしくお願いします。

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