信仰、信心について
はじめまして。
早々ですがお聞きしたいことがあります。
私は神様そのものは信じています。
けれどそれは神様や仏様はいる、とおもっているだけで、信仰しているわけではないのです。
崇め、奉り、敬い、教えに縋りたいわけではなく、
しかしただいるものだとはおもっています。
神仏の教えを素晴らしいものとおもい、そうありたい心が信心、伝え説くのがお坊様、という認識でおります。
そこで、なのですが、
そのような心構えでお祈りをするというのはおこがましくはないのでしょうか。
教えを守る気持ちも、尊ぶ気持ちもない私がです。
信仰心のない者であっても、時には手を差し伸べるのが神仏であると言われればそれまでですが、一方的感が拭えないのです。
見返りを求めていると感じる訳ではないのですが、
お賽銭などはともかく、お願いをするのに私は何もできないのでしょうか。
交通安全や、大切な人が健やかに、そして大切な人が天国で健やかであるようになど、そういう有り体といえば有り体なお願いです。
長々となってしまいましたが、よろしければ、ご回答のほどよろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたの中にいる
どりさん、はじめまして。
仏教ではご利益を中心に説いておりません。
こうあったからこうなった、全てはあなたの在り方があなたとあなたの周りの在り方を決める。
ただそれだけです。
仏や神様が有り難いから手を合わせるのではなく
手を合わせるあなたの姿を神仏は見て下さっているのです。
度合いの問題ではなく、そこにあるあなたの問題。
手を合わせるときの気持ちが、あなたの人生を穏やかにしてくれると嬉しいですね。
何かできると思っているのが私
>お願いをするのに私は何もできないのでしょうか。
何かしてあげたいと思うのが私達の常なのだと思います。
そこには理由が大きく3つあります。
1つは感謝です。
相手に対して感謝をしているから、「せめてこれぐらいは…」という気持ちです。
2つには自己満足です。
「自分はちゃんとしてやったぞ」という自己肯定をする為に行います。
そして3つに借りを作らない為です。
頂いた恩は返さないと、相手に対して自分は対等ではないように思えて気分が悪いからです。
仏教では、お勤めやお供えなど仏事は「感謝の心で行いましょう」と言います。
僧侶は皆肝に銘じております。
しかし、実際には自己満足の為や自己肯定の為に行っていることもしばしばです。
例えば「毎朝6時にお勤めしてるんだ」とか「本堂はいつもきれいにしてるんだ」と言った時、仏様への感謝ではなく、『俺はすごいだろ?』という意識でいるならば、本来の御給仕とは程遠いものになっていしまいます。
「何かできないか?」と思うのではなく「何もできない私でした」として、できることをなさったらいいのではないかと思います。
神社でお賽銭を投げることも大切なことですし、仏様に手を合わせることも尊いことです。
願える自分になれるように願う
善良な願いごとであれば、その願いが叶う叶わないはおいといて、そういう善い願いを持ち続けること、持ち続けられる自分であることが素晴らしい修行です。
神仏には、人々の幸せや平和など、善いことを願ってください。
善い願いをもった自分でいられるように、神仏に祈るというより、神仏に誓うような気持ちで拝んでみつはどうっでしょう。
質問者からのお礼
善い願いを持ち続けられる自分であること、できることをすること、
なんだか少しはきちんと腑に落ちた気がします。
手を合わせる、ただただそのことが善いことであると仰っていただけるのならば、やはり訪れた際などには静かに手を合わようとおもいます。
そして私自身は、いつまでも、どんな時でも、善意ある人間でいること。
そう在りたいとおもうこと、その為に少しずつでも動くこと。
なんだかきっと、とても他力本願な気持ちでいたのだとおもいます。
神仏に願う前に、私の周りの大切なひとたちを私自身がちゃんと大切にする、そんな当たり前が抜けていたのかもしれません。
お一人お一人お礼をしないですみません。
まとめてになってしまいますが、
皆さまお忙しい中お話し聞いてくだすり、ありがとうございました。