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信仰、信心について

回答数回答 3
有り難し有り難し 16

はじめまして。
早々ですがお聞きしたいことがあります。

私は神様そのものは信じています。
けれどそれは神様や仏様はいる、とおもっているだけで、信仰しているわけではないのです。
崇め、奉り、敬い、教えに縋りたいわけではなく、
しかしただいるものだとはおもっています。
神仏の教えを素晴らしいものとおもい、そうありたい心が信心、伝え説くのがお坊様、という認識でおります。

そこで、なのですが、
そのような心構えでお祈りをするというのはおこがましくはないのでしょうか。
教えを守る気持ちも、尊ぶ気持ちもない私がです。
信仰心のない者であっても、時には手を差し伸べるのが神仏であると言われればそれまでですが、一方的感が拭えないのです。
見返りを求めていると感じる訳ではないのですが、
お賽銭などはともかく、お願いをするのに私は何もできないのでしょうか。
交通安全や、大切な人が健やかに、そして大切な人が天国で健やかであるようになど、そういう有り体といえば有り体なお願いです。

長々となってしまいましたが、よろしければ、ご回答のほどよろしくお願い致します。

2015年6月25日 12:03

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたの中にいる

どりさん、はじめまして。

仏教ではご利益を中心に説いておりません。

こうあったからこうなった、全てはあなたの在り方があなたとあなたの周りの在り方を決める。

ただそれだけです。

仏や神様が有り難いから手を合わせるのではなく
手を合わせるあなたの姿を神仏は見て下さっているのです。

度合いの問題ではなく、そこにあるあなたの問題。

手を合わせるときの気持ちが、あなたの人生を穏やかにしてくれると嬉しいですね。

2015年6月25日 20:34
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有り難し
おきもち

日蓮宗。倉敷市受法寺住職・岡山市妙立寺兼務住職 1965年生。坊主歴35...

何かできると思っているのが私

>お願いをするのに私は何もできないのでしょうか。

何かしてあげたいと思うのが私達の常なのだと思います。
そこには理由が大きく3つあります。
1つは感謝です。
相手に対して感謝をしているから、「せめてこれぐらいは…」という気持ちです。
2つには自己満足です。
「自分はちゃんとしてやったぞ」という自己肯定をする為に行います。
そして3つに借りを作らない為です。
頂いた恩は返さないと、相手に対して自分は対等ではないように思えて気分が悪いからです。

仏教では、お勤めやお供えなど仏事は「感謝の心で行いましょう」と言います。
僧侶は皆肝に銘じております。
しかし、実際には自己満足の為や自己肯定の為に行っていることもしばしばです。
例えば「毎朝6時にお勤めしてるんだ」とか「本堂はいつもきれいにしてるんだ」と言った時、仏様への感謝ではなく、『俺はすごいだろ?』という意識でいるならば、本来の御給仕とは程遠いものになっていしまいます。

「何かできないか?」と思うのではなく「何もできない私でした」として、できることをなさったらいいのではないかと思います。
神社でお賽銭を投げることも大切なことですし、仏様に手を合わせることも尊いことです。

2015年6月26日 7:26
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有り難し
おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...

願える自分になれるように願う

善良な願いごとであれば、その願いが叶う叶わないはおいといて、そういう善い願いを持ち続けること、持ち続けられる自分であることが素晴らしい修行です。
神仏には、人々の幸せや平和など、善いことを願ってください。
善い願いをもった自分でいられるように、神仏に祈るというより、神仏に誓うような気持ちで拝んでみつはどうっでしょう。

2015年6月25日 23:04
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有り難し
おきもち

浄土宗教師。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための...

質問者からのお礼

善い願いを持ち続けられる自分であること、できることをすること、
なんだか少しはきちんと腑に落ちた気がします。

手を合わせる、ただただそのことが善いことであると仰っていただけるのならば、やはり訪れた際などには静かに手を合わようとおもいます。
そして私自身は、いつまでも、どんな時でも、善意ある人間でいること。
そう在りたいとおもうこと、その為に少しずつでも動くこと。
なんだかきっと、とても他力本願な気持ちでいたのだとおもいます。
神仏に願う前に、私の周りの大切なひとたちを私自身がちゃんと大切にする、そんな当たり前が抜けていたのかもしれません。

お一人お一人お礼をしないですみません。
まとめてになってしまいますが、
皆さまお忙しい中お話し聞いてくだすり、ありがとうございました。

「宗教について」問答一覧

信心するしないは、幸せに関係しますか?

いつも、ありがとうございます。 時々、疑問に思う事を質問させて下さい。 私の母は、昔から凄い信心する人で、私が思うに母が若い時に死ぬような病を祈願してもらって助かったことから、信心するようになったのかもしれません。 私が小さい時、お地蔵さんにお参りなど一緒に連れて行ってました。お寺や神社、お地蔵さん、ほんとによく通ってました。 私達が無事に過ごせますように。とのお願いをしていました。よく聞きますが、自分が年をとって人の手を取らなくていいように…のお願いもしていました。 そして、現在は私に依存しきってます。どんな時も私にです。人の手を取らなくていい!なんて有り得ません。とにかく私は、母の依存に疲れてます。年取ったから仕方ないとは思ってますが、仕事も忙しく、家事もして実家のことまで…それに適応障害の弟の事まで。 信心して、あれ程祈ってたのに。なので私が思うに人の手を取るとかは、自分の心の持ち方で変わると思います。そんな母の幼稚さ?になんだか悲しくなったり… 母は今では全く信心の気持ちは無くなってます。なんで、あんなにお参りしたんだろう?何もならんかった。と言ってます。 それに比べて私の友達の家は全くの無信心です。お父さんが亡くなって初盆でも和尚さんも呼ばずにお経もあげてません。 けれど、お母さんは、いつも前向きで 一人暮らしですが楽しく生活していて、娘(私の友達)に依存する事なく自立しています。 生きていくうえで信心していれば幸せになる、無信心だとご先祖様からも応援してもらえない。 なんて事は、関係ないのでしょうか? それは私の小さい頃からの思い込みでしょうか? 母からの依存は年だから仕方ない、後何年生きるかも分からないから、色々不満を持たずに接して行こう!とは思う時もありますが、ほんとにほんとに疲れます。 体が不自由になった訳でもなく、歩く速度は遅くなりましたが何でもできるのに、ヘルパーさんの仕事に買い物を頼んでるのに、週1は必ず私が買い物に連れて行かなくてはいけない事、それを母は当たり前と思ってる事も…ほんとに疲れてます。 母が亡くなるまで、こんな事が続くのかと思うと何とも言えない気持ちになります。 そんな気持ちを母に言っても何とも思っていません。 こんな私に何かお言葉をお願いします。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

新興宗教の人に業が深いと言われたのですが

おはようございます。 業が深いと言う言葉を昔から聞くのですが、結婚前にしつこく新興宗教に勧誘してくる女性がいました。 私は生まれつき持病がありますが、薬を飲んでコントロール出来て普通に生活をしています。 ある日突然新興宗教の女性に(近所に住む方)会ってしまい、また勧誘されました。 私は仏教徒ですとお断りしていたら「あなたのお母さんは業が深い」と言われました。突然言われ意味を聞くと「あなたのお母さんは前世から悪い行いをしてきたからあなたに持病などがでるんだ。だからうちの宗教に入信すれば大丈夫」など普通他人に言わないであろうことを平気で言われました。 最初は腹も立ちましたが今は母親のことをそんなふうに平気で言われたことが悲しいです。そういう宗教の人なので気にしない様にと思っていますがやはり自分自身が病気をしているのに何故母親のことを言うのか… そして、この方には散々勧誘されつづけ、引っ越してからやっと勧誘が無くなりました。今は自宅や、お寺などでご先祖さまに手を合わせたりお寺でも感謝の気持ちと共に自分の家族をよろしくお願いしますなどお参りさせてもらっています。 そして肝心な仏教では「業が深い」から家族が病気になるや、苦労するといったことはありえますか?よく前世の行いなどで来世で苦労するとは昔から聞くのですが、そうなると病気をしている方は前世で悪い行いをしていることになりますよね…? 肝心な私の母は昔からも何も問題なく暮らしています。私の持病にも普通に前向きですが… そして勧誘してきていた女性の新興宗教はまず神社に行っては行けない、他の仏教や宗教は全て邪教であるのでダメ等など… 業が深いの本当の意味やお坊さん達の解釈はどうなのでしょうか?

有り難し有り難し 60
回答数回答 4

私の信仰について

今の現状について私なりに答えを出してみました。家族の新興宗教のせいだと思ってきましたが、私が仏教に興味を持ったのもその新興宗教に対する対策がきっかけでした。 全ては仏縁なのかな。そう思えるようになりました。すべてを否定する。それでは新興宗教と一緒ではないかと。仏教を勉強してきて思えるようになりました。 以前、hasunoha様で浄土真宗から日蓮宗への改宗を考えているということで相談して、その縁で近くの日蓮宗のお寺に行き法話などを聞かせていただいております。 改宗や墓じまいなどの未来のことで暗くなって急がなきゃと焦ってしまっていた自分を見つめ直せました。hasunohaのお坊さま方、ありがとうございます。 前置きが長くなり申し訳ありません。ようやくここで質問に入らせていただきます。私は南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経を同時に信仰しているというような状況になっているのですが、この状況は問題ないのでしょうか? 日蓮聖人は南無阿弥陀仏を唱えると地獄に落ちると仰られており、親鸞聖人は念仏をして地獄に落ちても後悔はないと仰られたと歎異抄にありますが、 日蓮聖人や親鸞聖人は今の私の信仰の有り様にどう思われているのかなと思い、不安というか、こんな不安定な信仰をしている人間でいいのかなと思ってしまいます。以上まとまりのない文章ですが、お坊さま型のご意見お伺いさせていただきたいです。

有り難し有り難し 12
回答数回答 2

〇〇宗のお墓の前で、無宗教の人がお経を唱える意味は何ですか?

今や自分はともかく親が何を信仰しているかも分からない場合が多いと思います。そして特定の菩提寺を持たない場合において、祖父母の墓参りなどで直面する、お墓の前で唱える言葉の意味についてどう考えたらよいのか悩んでいます。 基本的には自分が信仰する宗派において、自分自身のために唱えるのは理解できるのですが、故人のために唱える場合は、どういう意味があるのでしょうか。 そもそも故人は自身の信仰によって成仏されていると思うのですが、それに対し後世に他人(親族です)が言葉を唱えることの仏教的な意味を知りたいです。 また、〇〇宗を信仰された祖父のお墓の前で、▲▲宗を信仰している(もしくは何も信仰していない)孫が唱える言葉は何が良いのでしょうか? 一般的には〇〇宗のお墓の前では、〇〇宗の言葉(例えば南無阿弥陀仏など)と教えられたのですが、よくよく考えていくと自分の信仰していない宗派の言葉を「形式的」にだけ唱えるという事になってしまい意味があるのかな、と思い始めました。 浄土宗などは念仏を唱えることに意義があるという点では、形式上であったとしてもある程度は理解できるのですが、浄土真宗やその他禅宗などにおいては意味があるようには思えないのです。 今まで深く考えず、親に教えられた通りに唱えていたのですが、勉強すればするほど分からなくなってきてしまいました。 迷える子羊をお救いください。

有り難し有り難し 14
回答数回答 2

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