厄年
昭和60年産まれ今年32歳、本厄を迎えます。
母からも、『厄年の中でも更に悪い運勢だから大人しく過ごしなさい、健康診断に行きなさい』と言われ段々怖くなってきてしまいました。
12月から育休があけ、仕事にも復帰しましたが、やる気が空回りし、『でしゃばらず、育児に専念して、大人しくしててくだい』と言われてしまいました。
とても悲しかったのですが、今は受け入れていますが、これも厄年の影響を受けつつあるのか。。?と思い始めてしまう自分がいます。
勿論、厄年という運命を受け入れて大人しくして一年過ごそうとも思っていますが、だからといって何もせずに、じっと時が過ぎるのを待つのみというのも違う気がしますし、嫌なことがあったら、厄年のせいにするのも違うとも思います。
投資の勉強を始めており、大金を使うことは辞めようとは思っていますが、少しずつ少しずつ地道にコツコツ資産を増やそうと考えておりますが、この新しい試みすらも控えた方がいいのでしょうか?
厄年を迎えるにあたっての心構えや注意するべきことはありますか?
お返事お待ちしております。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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厄年を活かす
これだけ科学的根拠が求められる時代にあって、厄年という科学的根拠のないものに惑わされる人が多いというのは面白いなあと個人的に思います。
まあ、統計的に?「体調の変化が起こりやすい年」に当てはまらないこともないそうですのであながちなんの意味もないとは言い切れないのかもしれませんが、私は全く気にしていません。
ですので、おっしゃるとおり「嫌なことがあったら、厄年のせいにする気持ち」が自分の中に少しでもあるのであれば、大きなことに挑戦するのを控えられたらよいのではないでしょうか?
そういう意味では厄年も「気を引き締めよう」とか「体に気を配ろう」とか有効に活用したいところですね。厄年に惑わされるのではなく、厄年を活用する。そんな心意気で臨んではいかがでしょう。健康診断も若いうちは機会がないと行きませんしねえ…よいタイミングではないでしょうか?
なお、じゃあ宗教、とりわけ仏教は?科学的根拠は?と言われると頭が痛いところもないことはないですが、私としては仏教とはそういう根拠のないものを拠り所とせず、揺るぎ無い真理である法(教え)を拠り所として生きるものといただいております。
人間の心は弱いです。つい、目に見えないもののせいにしたくなる心があります。
目に見えないものに惑わされ、目に見えないもののせいにするのではなく、
法という目に見えないものによって、この私の目が本当のものを見えるように覚まされるのが宗教かもしれません。
(事実を事実としてみる。事実でないものを事実としてみない。事実を事実でないものとしてみない。)
最後に、もし何か悪いことがあった時に「こうすればよいよ」「こうしないからダメなんだよ」とすり寄ってくるいかがわしいものにはくれぐれもご注意を。
厄年の事など気にせずにがんばりましょう
angelbabyさま、御質問頂き有難うございます。私たちの教団は厄年については、御縁あるものだと捉えておりますが、吉竹さまのおっしゃっている様に体調の変化が起こる年だという事だと思います。仏教の教えに諸行無常・諸法無我がございますが、いつまでも人間の年齢や体力等もそのままでなく、常に変化しているのが実状です。心の中に元気だとか体は大丈夫という思いこそが、欲望でございまして、これこそが煩悩でございますが、これが無くなる時が亡くなった時でございます。厄年だから縁起が悪いとか思われますが、素直に受け止めて、縁起だと思われることが大切だと思います。合掌
質問者からのお礼
吉武文法 様
お返事ありがとうございます。厄年を活かすという考えは全く浮かんできませんでした。納得です。
気を引き締めるという風に捉え、何か悪いことが起きるのでは?と考え過ぎないようにしたいと思います。
最後の忠告も踏まえて、1日1日一歩一歩地に足をつけ惑わされることのないよう一年を過ごします。
ありがとうございました。
堅田正樹 様
回答頂きありがとうございました。『煩悩』については、前回も質問をさせて頂き、私の中の課題でもあるのですが、心や体が元気だという思いも煩悩なのですね。。全ての煩悩を、なくす事は難しい事ですが、気持ちをしっかり持ち、厄年だから。。と気負いする事なく、一歩一歩慎重に前え進んでいければな、と思えました。ご丁寧な回答をありがとうございました。