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愛犬への念仏の唱え方

回答数回答 1
有り難し有り難し 5

南無阿弥陀仏←教わった
南無大師遍照金剛←家の念仏

長いお経は、と言ってもお経は知りませんが、
愛犬のご褒美になるなら、ぷちお経なら暗記しちゃうかも(笑 
犬だけど、短いのなら賢いから覚えるし。。。と、思うので、毎日なんとなく愛犬が涅槃浄土に入ってから「南無阿弥陀仏」と。

お釈迦様のもとでお行儀よく過ごしてもらいたい願いから、愛犬を想うたびに心の中で唱えています。・・・気のせいでもいいです(笑←間違えなくお釈迦様のとこにいけてるっと、思う飼い主です。

大雑把な飼い主ですが、最近なんて言えばいいんだろう?と、ふと気になりました。可愛くて賢い愛犬(笑 には、どのような念仏がよいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

どちらでもOKです

るんびんバーニさん、はじめまして。質問を拝読いたしました。

るんびんバーニさんは、最近愛犬を亡くされたのでしょうか。大切にしておられた愛犬は家族と同じです。お悔やみ申し上げます。

さて、るんびんバーニさんは愛犬の供養に際して「南無阿弥陀仏」と唱えたらいいのか、「南無大師遍照金剛」と唱えたら良いのか迷っているのですね。

結論として、どちらでも構いません。

「南無阿弥陀仏」は浄土におられる阿弥陀如来(阿弥陀仏も同じ意味です)に救ってほしいという願いを込めています。一方で南無大師遍照金剛も弘法大師空海に救ってほしいという願いを込めています。
救ってほしいと願うのが阿弥陀如来なのか、弘法大師空海なのかの違いだけです。

大切なのはるんびんバーニさんが愛犬を供養したいという気持ちです。

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有り難し
おきもち

徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の...
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質問者からのお礼

観音寺
僧正様

明快なご回答を賜り、心から深謝申し上げます。

愛犬がお釈迦様のもとにまいりましたのは、だいぶ前になります。
なんと表現したらよいかわからないほど・・・言葉に置き換えられないほどの格別な存在でした。

毎日のように思い出すのですが、とても優しい気持ちになれる犬でした。
その時には、お釈迦様のところで、おりこうにしててね。いつかきっとまた会えるからね。と、南無阿弥陀仏とお救いを求め心の中でなんとなく唱えていました。←お教えのくせ^^;

ところが、昨年父が他界し、浄土で幸せに・・・と祈りながら、南無大師金剛遍照と「どうかお救い下さい」と念仏を唱えながら「あっ。南無阿弥陀仏と愛犬に唱えていた」と気がつきました。

・・・どうしよう。と、今さらながら思わず質問させていただきました。
、、、よかったぁ。安心しました。。。うっかりしていました><

「念仏について」問答一覧

きらびやかな誕生に比べて人生がしょぼい

母が富士山に登った時にゲロッとつわりが来て僕を妊娠していることが判明。そのストーリーゆえに「おまえは富士山の神様から授かった子かもしれんな」と父に言われた事が自分の自尊心・自己肯定感の源になってきました。 富士山の神様は浅間大明神=木花咲耶姫ですが、母の実家の隣にはこの神様を祀った神社があったり、大学に進学して富士山と関係ない地方に住んだら僕の苗字がついた神社があったので参拝してみたらそこの祭神も木花咲耶姫だったりと、ただならぬ縁を感じています。 子供の頃は明らかに他の同級生に比べても知能がズバ抜けていたし、数年前にIQを測ったら132でした。 ただ、そのキラキラした誕生ストーリーの割には実際の人生がキラキラしてないのです。社長でもリーダーでもなく、しがないサラリーマン歯科医。金持ちでもないし住まいも田舎。人に慕われるような人気者でもなく、5年も婚活してやっと結婚できてもつまらない理由で離婚させられ、再婚相手が見つかったと思ったら婚約破棄。今3度目の婚活中で、もうじき40歳になります(この辺りの経緯は過去質問を参照ください)。 ここから浅間大明神の子に相応しい英雄になれるドラマが自分の人生にあるとは思えないし、あったとしてもそれに耐えうる根性が自分にあるかも怪しいです(5千万円の借金にビビって開業あきらめた弱虫ですから)。 念仏者としては神の子より凡夫の方が良いのかもしれませんが、自分の自己肯定感の源と現実との格差をどう縮めたものかと時々情けなく思います。

有り難し有り難し 28
回答数回答 2

迷いを抱えたまま回向をすることについて

3年前に父が亡くなり、うつ病となってから、自分の心を整理するために宗教・哲学・心理学など様々な本を読みました。 その中でも自分の腑に落ちたのは仏教の教えです。釈尊が説かれた「諸行無常」「諸法無我」の教えは、抑うつ症状に苦しむ中での支えとなっています。 しかし、一方で仏教を学ぶにつれて迷いが出てきたこともあります。それは、我が家の宗派である浄土宗の教えについてです。 我が家は祖父も父も信仰に厚い人だったこともあり、私も毎日遺影の前で念仏を唱えて回向することが日課になっています。しかし、自分なりに様々な宗派の教えを学んでいく中で、法然上人の説かれた「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」という教えにある種の苦しさを感じるようになってしまいました。 日によって体調が安定せず、中々快方に向かわない現状が続く中、「阿弥陀様におすがりする」という考え方が、自分の中で上手く飲み込めないように感じてしまっています。 最近ではむしろ「それ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。」という弘法大師の言葉のように、「自分の心と向き合う」ことに考えが向いているところがあります。 自分の心の問題は時間をかけて解決していけば良いとしても、今悩んでいるのは毎日の回向についてです。上記のような迷いを抱えたまま、念仏を唱えることは問題ではないでしょうか。やはり心が伴っていなければ回向に意味はないのでしょうか。父の祥月命日がもうすぐという中で、悩みが深まっています。 家族にも医師にもカウンセラーにも相談できない中で、「ハスノハ」さんを見つけました。お答えをいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 18
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南無阿弥陀仏のお念仏で極楽に往けますか?

浄土宗のお坊さんにお聞きしたいです。 私は、浄土宗の信徒です。歳は70歳を超えた現在今更ながら恥を忍んでお聞き致します。 (ご住職様は日頃、京都にお勤めでお寺にはおられませんのでこちらにお聞き致します) 私はずっと、南無阿弥陀仏と心から信じて唱えていると、ご本尊様が臨終の際に極楽浄土に導いて下さると信じていました。毎朝晩、ご燈明をつける時一生懸命にお願いをしておりました。 従って日常の行いは大切ではあるけれど、その行いによって六道輪廻のどこかに落とされる?という教えは、浄土宗には関係ないものとずっと思っておりました。 それ故、葬儀の後の七日毎の逮夜は審判ではなく供養をしていると思って勤めておりました。 ところが本日、親鸞聖人に関係のある某団体主催の勉強会に参加させて頂きました。 その際、講師の先生曰く 〇お釈迦は南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けるとは一切言っておられませんとか。  そんなのなら、誰もが極楽へ行けますよとか。 〇六道輪廻はあります。魂とは別に?根底に肉体という物体がありその物体が輪廻しているとか。 私の様な凡人にはよく理解出来ませんでしたが、今まで心より信じていましたご本尊さまのお導きによって極楽浄土へ行ける事を否定されている事に大きなショックを受けました。 今まで思っていた通り、心よりお念仏を唱える事でご本尊様に極楽浄土に導いて頂けると信じていてよろしいでしょうか? よろしくご指導下さい。 ★法然上人のお弟子さんの親鸞聖人に関係する会という事でしたので参加してみました。

有り難し有り難し 16
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ