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父への接し方

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年末に同居を始めて、始めのうちはなんだかギクシャクしていましたが、少しずつ少しずつ慣れて来ているように思います。
まだまだですが、主人も両親に対して気を使ってくれていて、両親も気を使ってくれていて、なんとなく、1日1日がてさぐりですが、穏やかに過ぎていってる感じです。

母と私は以前から仲よくて、それを知っている主人は、その事を微笑ましいと思ってくれていて、3人は笑顔で同居に慣れようとしていますが、父だけは、ぶっきらぼうというか、母への暴言というか、偉そうな態度を見るたびに許せなくなります。私が話しかけてもニコリとするわけでもなく、朝から機嫌が悪く、父がいると、その場の雰囲気が悪くなります。

結婚し、主人との世帯を持ったので、私は主人を第1に考えていこうと思っています。
両親とは生活のリズムも違うので、私は主人と行動を共にしていますが、それが気に入らないのでしょうか?
でも家族3人の中に1人で入って来た主人の気持ちを考えたら、私は主人に寄り添ってあげることが、当たり前だと思うのです。

私は15年前に一人暮らしをし、今年旦那を連れて同居を始めたのですが、何が気に入らないのか、主人が話しかけてもぶっきらぼうです。

母へのきつい言葉をきくと、私がイライラします。当の母は『いつものことよ。』と笑っていますが。
前から、父は今と同じ性格だったのでしょうが、私の前では優しかったはずなのに。

父も70歳なので、私と主人は両親の面倒を見るために同居を決めたのに、父の態度が本当に嫌で、好きだった父が嫌いになりそうです。

こんな父にはどんな態度で臨めばいいですか?

主人との仲は良好で、以前教えていただいた『いま』を見るように努力しています(*^_^*)

同居を始める前は1人であーだこーだ悩んでいましたが、蓋を開ければ、母も主人も、同居を楽しくしようとしてくれていました。
一人相撲だったんですね、わたし。

主人のありがたさにますます気づいて、感謝しています。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

想念と現実の違い

実際の現実とは実際の現実を目の当たりにしないと本当にハッキリしないのですよね。
それまで思っていること、思い込んでいるものはみーんな自分が作り上げた勝手な妄想なのです。
多くの人はそこが混同してしまっているのです。
きっとこうだろうなぁ、、より、実際の実物を相手に生きましょう。
思い込みなんて嘘だと分ければ、相手にするものはヒトツコトしかなくなりますので人生快適サクサクです。
ヒトツコトとはあなたの思い込みではない、実際のリアルタイムで動いていることの方です。
よかったですね。
多くの人に、教えてあげてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

あの時教えていただいて、それ以来少しでも実行できるようになりたいと思っております(*^_^*)

と、いうことは、父はぶっきらぼうでも、多分機嫌悪いだろうなぁというというのは私の想念ということでしょうか?

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