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息子に怪我をさせてしまいました

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有り難し有り難し 9

息子の行動に腹を立て、たまたま手にしていた物を投げつけて耳の下に怪我をさせてしまいました。もちろん当てるつもりはなかったのですが、命中してしまい、大変後悔しています。怖かったと思います。痛かったでしょう。母を信じられなくなったでしょう。
傷つけたことは謝りました。でも、親子が終わった感じです。
元々、手が出やすいタチですが、物で傷つけたことに、大変ショックを受け後悔しています。
子供の心にも深い傷を残したと思います。

幸い、大怪我にはなりませんでした。
神様が私を戒め、チャンスを与えてくれるために、大事にいたらなかったのかも、と勝手に考えておりますが、その為に息子が痛い目に遭ったこと、かわいそうでなりません。

なんとか、許してもらえるのでしょうか。
息子の心の傷は癒えるのでしょうか。
私はもう二度と子供を傷つけるようなことはしないでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心底謝る

親子は親と子供という立場で接しようとするとそのようなことが起こるのです。
うまく行っている親子は親子でありながらフレンドリーです。
文字通り「フレンド」「ともだち」なのです。
幼稚園児は大人にもタメ語です。いきなりお友達になれます。
ナマイキな口をきいてもそれで怒る人はいません。
怒るのは大人らしくあろうとする大人です。
中学高校になるとナマイキ感を強く感じると思いますが、まだまだ世間知らずの子供のやること。
夫婦も他人様も親子も本当の意味で友達になってしまうことです。
夫婦であっても離婚したとしても友達になってしまうことです。
立場を意識するからぎくしゃくする。
友達になるには自分を立てないことです。
立場や思い方で接しないことです。
まっすぐな目をしている人がいました。
まっすぐな目をした人は、隔てを感じません。
そのまま、誰でも受け入れてくれるような。
そんなまなざしをしています。
反対に、冷たい目をしている人が居ました。
冷たい目をしている人は、自分を強く持っている人で、その自分を強くこちらにぶつけてくる人でした。
友達になりやすいのは、まっすぐな目をした人です。
人間は生まれながらにみんなまっすぐなのです。
嫌なことがあると、冷たい目になってしまいます。
あの人は嫌な人だから、と距離を持ちます。
子に人にはこうあってほしいから、と寄せ付けません。
お互いにまっすぐさを取り戻すには、あなたが構えを無くすことです。
素直に謝れますか。
その子の友達になれますか。
その子の友達になるとは、ここでは無我を意味します。
万人と友達になるには、自分の押しつけを持たないまなざしです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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