息子の行動に腹を立て、たまたま手にしていた物を投げつけて耳の下に怪我をさせてしまいました。もちろん当てるつもりはなかったのですが、命中してしまい、大変後悔しています。怖かったと思います。痛かったでしょう。母を信じられなくなったでしょう。
傷つけたことは謝りました。でも、親子が終わった感じです。
元々、手が出やすいタチですが、物で傷つけたことに、大変ショックを受け後悔しています。
子供の心にも深い傷を残したと思います。
幸い、大怪我にはなりませんでした。
神様が私を戒め、チャンスを与えてくれるために、大事にいたらなかったのかも、と勝手に考えておりますが、その為に息子が痛い目に遭ったこと、かわいそうでなりません。
なんとか、許してもらえるのでしょうか。
息子の心の傷は癒えるのでしょうか。
私はもう二度と子供を傷つけるようなことはしないでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
親子は親と子供という立場で接しようとするとそのようなことが起こるのです。
うまく行っている親子は親子でありながらフレンドリーです。
文字通り「フレンド」「ともだち」なのです。
幼稚園児は大人にもタメ語です。いきなりお友達になれます。
ナマイキな口をきいてもそれで怒る人はいません。
怒るのは大人らしくあろうとする大人です。
中学高校になるとナマイキ感を強く感じると思いますが、まだまだ世間知らずの子供のやること。
夫婦も他人様も親子も本当の意味で友達になってしまうことです。
夫婦であっても離婚したとしても友達になってしまうことです。
立場を意識するからぎくしゃくする。
友達になるには自分を立てないことです。
立場や思い方で接しないことです。
まっすぐな目をしている人がいました。
まっすぐな目をした人は、隔てを感じません。
そのまま、誰でも受け入れてくれるような。
そんなまなざしをしています。
反対に、冷たい目をしている人が居ました。
冷たい目をしている人は、自分を強く持っている人で、その自分を強くこちらにぶつけてくる人でした。
友達になりやすいのは、まっすぐな目をした人です。
人間は生まれながらにみんなまっすぐなのです。
嫌なことがあると、冷たい目になってしまいます。
あの人は嫌な人だから、と距離を持ちます。
子に人にはこうあってほしいから、と寄せ付けません。
お互いにまっすぐさを取り戻すには、あなたが構えを無くすことです。
素直に謝れますか。
その子の友達になれますか。
その子の友達になるとは、ここでは無我を意味します。
万人と友達になるには、自分の押しつけを持たないまなざしです。