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愚かな自らに厭気がさします

回答数回答 2
有り難し有り難し 20

こんにちは。

以前も同じような内容で投稿させて頂きました。また同内容の投稿となり、申し訳ありません。

高校生の頃から付きまとう不安は初めは漠然としたものであり、思春期の年齢的なものと思っていました。

しかしその後も消えず、ずっと胸の奥に固まりとなってあり、突然波のように押し寄せてきます。

不安があることは当たり前で、悩んでいるのが私だけではないと言い聞かせてはいますが、長年続いている不安に疲れてしまいました。

嬉しいことがあれば次には何かあるのではないか、人と話せば今の一言で嫌われてしまうのではないかなどと怯え、表面上の会話しか交わせません。(ある程度の年齢の人間関係で当たり前のことですが)仲の良い友達とはどのような関係なのかも分からなくなっています。

恵まれている環境にいながら感謝どころか、自業自得の不安で疲れている年齢相応になれない自らが情けないです。でもどうしようも出来なくなっています。

どのような心持ちになればこの不安も修行だと思えるでしょうか。またまともな人間になれるのでしょうか。

お忙しいところこのようなまとまりがなく、愚かな投稿申し訳ありません。

ご教示頂ければ幸いです。どうぞ宜しくお願い申し上げます。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お釈迦様も同じです。

拝読させていただきました。

それはつらいですね。とても分かります。これを解決しないとどうにもこうにも先に進めません!っていう感じですよね。

お釈迦様も朝顔様と似てると思いますよ。お釈迦様はこれでもかっていうぐらい恵まれた環境で育ちました。お城の後取り、王子として生まれて、お金など物質的なものもあり、頭も良く才能にも恵まれて、奥さん子供にも恵まれて、何不自由のない環境がそこにありましたが、それらを捨ててお城を出られました。

そのときの思いを、「胸に毒矢が刺さって一刻も早く抜かなければならない状態」と残されております。それくらい、このままじゃダメだ、という思いがあったのです。

仏教では「三毒」という、苦しみの本となる三つの毒があります。それは、貪、瞋、痴。つまり「むさぼり」「いかり」「おろかさ」です。
もっと簡単にまとめさせていただくと、「ほしい!」「いやだ!」「思い込み」です。

「いやだ」は当然苦しいです。
「ほしい」も快感なのは得た直後までで、そこからは苦しみに変わります。「手放したくない!ずっと持っていたい!もっと!もっと!」と、執着により苦しいです。この世に「変わらずにずっとある」なんてものは存在しないので、思いに反します。

そして最後の「思い込み」が一番大事なのですが、これは、
『ほしい、も、いやだ、も、「ある思い込み」から生じるものである』ということです。

それは、『我思う、ゆえに、我あり』が正しいという思い込みです。決して、『思い=私』ではありません。思いは、「道具」でしかない。「思い=私」だと思い込んでいると、アップダウンする「思い」と一緒になって苦しまなければなりません。思いに圧倒されている状態です。
ですが、「思い=私ではない」としっかりと認識すれば、道具は道具として、使いたいときは使えばいいし、使いたくないときは放っておけばいいです。

これはすぐにはそう理解できないかもしれませんが、日常の生活のなかで、意識して観てください。思いに圧倒されそうになったら、深呼吸して、止まって、観る。日常のなかで理解を深めていってください。

難しく考えずに、安心して、ゆっくり実践してみてください。

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有り難し
おきもち

若輩者ですが、宜しくお願い致します。
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心配ないですよ

不安は修行ではないですよ^_^
自らを苦しめる原因は、自分にあります。その思いを手放すのです。
ねばならない、こうあるべき、という思考は、あなたのこだわりに過ぎない。
人間は生まれながらに自由な存在なんです。どんなであってもいいのです。友達とはこうすべき、友達はいないといけない、こんな会話を一般的にするはずだ。こうした思考は、ただの思い込み。
現実とは大きくかけ離れた、思考の世界、妄想です。

仏道修行は、そちらの思いに生きるのではなく、事実に生きることをします。縛られることはない、とても自由な存在であることに気づけるでしょう。無理はしなくていい。友達も自然に、できるときはできる。そんなもんです。

そうした生き方は坐禅により学ぶ事ができます。人間とは、自分とは、生きるとは、そうした真理に気づけるでしょう。

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有り難し
おきもち

禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺副住職。 悩みを吐き出す事で、ちょ...
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質問者からのお礼

宗像義順様
お言葉ありがとうございます。一晩考えさせて頂きました。
「思い」=自身ではないのですね。はっとしました。不安を「道具」と認識出来るまでには時間がかかると思いますが、捉え方の転換の手がかりになりそうです。
ありがとうございました。

邦元様
お言葉ありがとうございます。一晩じっくり考えさせて頂きました。

仰る通り、何事も「こうあらねばならない」と枠にはめて考えてしまいがちです。その枠は妄想なのですね…。
「事実に生きる」ということを意識していきたいと思います。
座禅も実は躊躇していたのですが(これも、ねばならない思考で余りにも煩悩が多すぎて出来ないと思っていました)、次の機会には体験させて頂こうと思います。
ありがとうございました。

「心構え・生きる智慧」問答一覧

ヘルパーに酸素マスクを外され、、、

母は老人施設で老衰で亡くなりました。最後は点滴も出来ない体になり、息も上がっていたので酸素もチューブで鼻から入れてもらっていました。亡くなった当日面会に行っていたのですが目も開ける事なく、問いかけにも微動だにせず、腕も指も動かない状態でした。途中看護師が「口も開いているのでマスクに替えますね」と鼻のチューブをマスクに替えて退室。暫くしてヘルパーがオムツ交換に来たので退室し、終わったのでと声をかけに来てくれてから再度部屋に戻ったところ、鬼の形相(に見えました)で亡くなっていました。その時は亡くなったという現実で頭がいっぱいで気が回らなかったのですが、酸素マスクが外されベッドに置いてあったということが2日後に気付きました。 葬儀を終えてから施設の方へ挨拶へ行き、その際にマスクが外されていた事も話しました。ヘルパーからは何の報告も上がっていなかったので私たちの話で初めて知ったとの事でした。 マスクがあれば看取れたかもしれない。マスクが外されていたので苦しいまま息を引き取ったのかもしれない。それが悔しくて残念でなりません。ただ、マスクがついていたとしても、命の限りは決まっていたでしょうから、施設やヘルパー個人を責める気は無かったのですが、施設からビデオで確認した所オムツ交換をすると言って来たヘルパーと実際にオムツ交換をしたヘルパーは違うヘルパーである。オムツ交換をしたヘルパーに聞いた所顔には触っていない。オムツ交換をした時にマスクがずれたかもしれない。退室時にマスクの確認はしなかった。と曖昧、ウソばかりであろう報告を受けました。 こちらとしては特に報告をして欲しいと言っていなかったので、逆に気持ちを逆撫でされる報告を受け苛立ちや悔しさ、腹立たしさばかりが込み上げてきています。 施設の言い訳、ウソを聞く度にモヤモヤが増して行きます。事を大きくしたく無いと思っていましたがウソをつかれると言い返したくなってしまいます。この気持ちは時が解決してくれるのでしょうか。気の持ち方を教えて頂きたくお話しさせて頂きました。どうぞよろしくお願いいたします。

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夫にかける言葉や心持ちについて

お坊さんはじめまして。私は三十代半ばの女性です。昨年結婚した三十代後半の夫についてご相談させていただきます。 私たち夫婦に子どもはいません。共働きで円満に暮らしております。しかし最近夫が自身の実家との関わり方に疲弊しているようで、妻として一人の人間としてどういったフォローをすれば良いかわからない状況です。 夫は小学生の頃に父親を病気で亡くしており、母と年の離れた妹と三人の家庭で育ちました。社会人になってからは単身で暮らしていたそうです。 そして今現在は家から車で一時間ほどの距離で義母と義妹(三十代前半)が同じ家で暮らしています。 数年前から義妹の体調が優れず(原因不明)身体に不調が滲み出ており、私から見ても心配になる顔つき体つきをしています。 またその義妹を支えるためか義母も老体にむち打つようにアルバイトをしています。 義妹には義妹の、義母には義母のストレスがあるのだと思います。二人は言い争いが多々あるようです。 そんな二人の板挟みとなっている夫は、息子・兄の立場以上に「亡くなった父親の代わりに自分がなんとかしなければいけない」と使命感があるようで、私から見ると不要な心配や気遣いをして神経をすり減らしているように見えます。 亡くなった父親の代わりに〜というのは夫本人から出た言葉です。 そんな生真面目で優しい夫に惹かれて結婚したのですが、いつかどこかで夫がぽっきり折れてしまいそうで怖いのです。 私自身も病気がちで夫に助けてもらっている部分がたくさんあります。 なので夫からしたら、病気がちで手のかかる妻、日に日にやせ細り見放せば死んでしまいそうな妹、年老いて体が悪くとも働かなければならない母の三者に気を配る生活をしています。でも夫自身は誰にも助けを求めていないように思うのです。 父親と死別した長男というのは、これからもずっと残された家族を守る使命感に縛られていくのでしょうか。夫自身がそのような使命感から放たれる日は来ないのでしょうか。 義母義妹について悩む夫を見ているのがとても辛いです。 なにか私がかけてあげられる言葉や、知った方が良い心持ちがあれば教えていただきたくご相談とさせていただきます。 まとまらない文章で申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 10
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賢く生きるのが難しいです

 春休みが長期間あったので、バイトをたくさん入れました。しかし、一日数時間しか入れないので、1ヶ月で合計すると、そんなにバイト代はもらえません。  しかし、バカな私は、いつもよりたくさん入れたら、たくさんもらえるというように考えていました。  バイト代が入ったときに、春休みにしては全然稼げてなかったので、シフトを入れた時に計算しなかったことに、自己嫌悪に陥りました。  新しいバイトを探そうとはしていますが、周りの人が当たり前にできてることにつまずくのが悔しいです。  高校までぬるま湯で生活していたので、社会の厳しさを垣間見たのもあります。  もともと、生活やあらゆることをうまく賢くするのが苦手だったのですが、周りが賢く生きている話を聞いたり、今回のつまずきで、一気にこの先の自信がなくなりました。  周りの人が考えたら失敗しないようなミスを、私は失敗しないと間違えることに気づけなかったりなど、全部失敗していって学んでいくスタイルが嫌です。  春休みは、資格も取ったり、友達と遊んだり、バイト以外にもしましたが、バイトで稼げなかったことで、自信とやる気を失いました。  どうしたら、賢くうまく生きれて、失敗しても立ち直れますか?全部失敗していって学んでいくスタイルは、なおせますか?

有り難し有り難し 6
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 こんにちは。 30代後半の専業主婦です。  私は10代のときに精神病を患いましたが、実家の家族の懸命なサポートのおかげで寛解をし、30代で結婚もでき、子供も授かることができました。 子供が幼稚園に通い始めるようになると、お母さんたちとの付き合いも増えるようになり、いわゆる「健常者」の方との付き合いも出てきました。  普通ならば、ママ付き合いはたやすく出来そうなものですが、私は10代で精神病になり、20代全てを療養に費やしてきました。 なので、皆が一般的にやっている就職や社会人経験がゼロの状態で結婚、出産、育児をしていることになり、周りのお母さんたちとは、どうしても「違い」を感じてしまいます。テンションも違うし、話す話題も仕事の話ばかり。 人の裏を常に警戒しているような人だらけで、あまりに空気感が違いすぎて付き合いなんて私には無理、と不安でいっぱいです。  実家の両親は、「社会人経験なんて、ないほうがいい。社会に毒されてしまった女の子に本当の人付き合いなんて出来ない。 あなたは、社会人経験がないおかげで人とオフで表の顔で付き合いができるんだよ。」と言ってくれています。  しかし、どうしても他のお母さんたちと接すると、彼女たちのほうがうんと「大人」に見えて感じてしまい、私はまるで10代から精神的な時間がストップしているみたいに感じています。  友人には健常者の友達はいて、プライベートな話もできる仲です。でも、幼稚園のママさんたちは、それとは違うように思います。  どうしたら彼女たちと対等に、劣等感を感じずに付き合えるでしょうか?

有り難し有り難し 12
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