愚かな自らに厭気がさします
こんにちは。
以前も同じような内容で投稿させて頂きました。また同内容の投稿となり、申し訳ありません。
高校生の頃から付きまとう不安は初めは漠然としたものであり、思春期の年齢的なものと思っていました。
しかしその後も消えず、ずっと胸の奥に固まりとなってあり、突然波のように押し寄せてきます。
不安があることは当たり前で、悩んでいるのが私だけではないと言い聞かせてはいますが、長年続いている不安に疲れてしまいました。
嬉しいことがあれば次には何かあるのではないか、人と話せば今の一言で嫌われてしまうのではないかなどと怯え、表面上の会話しか交わせません。(ある程度の年齢の人間関係で当たり前のことですが)仲の良い友達とはどのような関係なのかも分からなくなっています。
恵まれている環境にいながら感謝どころか、自業自得の不安で疲れている年齢相応になれない自らが情けないです。でもどうしようも出来なくなっています。
どのような心持ちになればこの不安も修行だと思えるでしょうか。またまともな人間になれるのでしょうか。
お忙しいところこのようなまとまりがなく、愚かな投稿申し訳ありません。
ご教示頂ければ幸いです。どうぞ宜しくお願い申し上げます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
お釈迦様も同じです。
拝読させていただきました。
それはつらいですね。とても分かります。これを解決しないとどうにもこうにも先に進めません!っていう感じですよね。
お釈迦様も朝顔様と似てると思いますよ。お釈迦様はこれでもかっていうぐらい恵まれた環境で育ちました。お城の後取り、王子として生まれて、お金など物質的なものもあり、頭も良く才能にも恵まれて、奥さん子供にも恵まれて、何不自由のない環境がそこにありましたが、それらを捨ててお城を出られました。
そのときの思いを、「胸に毒矢が刺さって一刻も早く抜かなければならない状態」と残されております。それくらい、このままじゃダメだ、という思いがあったのです。
仏教では「三毒」という、苦しみの本となる三つの毒があります。それは、貪、瞋、痴。つまり「むさぼり」「いかり」「おろかさ」です。
もっと簡単にまとめさせていただくと、「ほしい!」「いやだ!」「思い込み」です。
「いやだ」は当然苦しいです。
「ほしい」も快感なのは得た直後までで、そこからは苦しみに変わります。「手放したくない!ずっと持っていたい!もっと!もっと!」と、執着により苦しいです。この世に「変わらずにずっとある」なんてものは存在しないので、思いに反します。
そして最後の「思い込み」が一番大事なのですが、これは、
『ほしい、も、いやだ、も、「ある思い込み」から生じるものである』ということです。
それは、『我思う、ゆえに、我あり』が正しいという思い込みです。決して、『思い=私』ではありません。思いは、「道具」でしかない。「思い=私」だと思い込んでいると、アップダウンする「思い」と一緒になって苦しまなければなりません。思いに圧倒されている状態です。
ですが、「思い=私ではない」としっかりと認識すれば、道具は道具として、使いたいときは使えばいいし、使いたくないときは放っておけばいいです。
これはすぐにはそう理解できないかもしれませんが、日常の生活のなかで、意識して観てください。思いに圧倒されそうになったら、深呼吸して、止まって、観る。日常のなかで理解を深めていってください。
難しく考えずに、安心して、ゆっくり実践してみてください。
心配ないですよ
不安は修行ではないですよ^_^
自らを苦しめる原因は、自分にあります。その思いを手放すのです。
ねばならない、こうあるべき、という思考は、あなたのこだわりに過ぎない。
人間は生まれながらに自由な存在なんです。どんなであってもいいのです。友達とはこうすべき、友達はいないといけない、こんな会話を一般的にするはずだ。こうした思考は、ただの思い込み。
現実とは大きくかけ離れた、思考の世界、妄想です。
仏道修行は、そちらの思いに生きるのではなく、事実に生きることをします。縛られることはない、とても自由な存在であることに気づけるでしょう。無理はしなくていい。友達も自然に、できるときはできる。そんなもんです。
そうした生き方は坐禅により学ぶ事ができます。人間とは、自分とは、生きるとは、そうした真理に気づけるでしょう。
質問者からのお礼
宗像義順様
お言葉ありがとうございます。一晩考えさせて頂きました。
「思い」=自身ではないのですね。はっとしました。不安を「道具」と認識出来るまでには時間がかかると思いますが、捉え方の転換の手がかりになりそうです。
ありがとうございました。
邦元様
お言葉ありがとうございます。一晩じっくり考えさせて頂きました。
仰る通り、何事も「こうあらねばならない」と枠にはめて考えてしまいがちです。その枠は妄想なのですね…。
「事実に生きる」ということを意識していきたいと思います。
座禅も実は躊躇していたのですが(これも、ねばならない思考で余りにも煩悩が多すぎて出来ないと思っていました)、次の機会には体験させて頂こうと思います。
ありがとうございました。