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息子達の今後について

回答数回答 2
有り難し有り難し 14

こんにちは。
いつもありがたいお言葉に感謝の気持ちでいっぱいです。
何度かこちらで主人との事を相談させて頂きましたが、あれから何も変わらない主人の態度に疲れ果て私だけなら我慢もしますが子供にまで無関心で家の中にいても子供を無視する生活でこのままでは子供が可哀想なので思い切って冷めきった家を出て実家で生活しています。
実家の両親も事情が事情なので子供を心配して協力するからとこころよく受け入れてくれました。
しかし、子供が受けた傷は思っていたより深く、パパの話になるとパパは僕たちを捨てたのと同じだ!自分の子供を大事にできないパパなんて大嫌い!と言っています。まだ小学生の長男、次男、3歳の末っ子にこんな気持ちを味あわせてしまい申し訳ない限りです。その反動なのでしょうか、上の2人は少しの事でヘソを曲げます。長男も次男も抱っこ抱っこの末っ子にヤキモチを焼いたり私や祖父母に反抗的な態度をする毎日です。今まで父親がいるのにいない様な生活でしたし親の都合で実家に移り住み環境も変わってしまい子供が受けた心の傷、ダメージは相当なものだろうと感じています。
私も祖父母もフルタイムで働いているので愛情不足なのかもしれませんが時間の許す限りみんなでトランプをしたり散歩に行ったりしています。
最近次男は嘘をつくようになりました。引き出しの中からお金を盗みました。私に見つかり泣いて謝りましたが、もうどうしたらいいかわかりません。
助けて下さい!今後どうなるのだろうかと考え不安でおかしくなりそうです。
曲がった子になってほしくありません。
自信を無くしたようにヘソを曲げいじけキレる子供達とどうに向き合っていけばいいのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

❝親の都合からみると❞曲がってみえるだけで自然な反応です

それは大変でございました。
子供が親の金をパクることなんざ一度や二度や三度や10回20回当たり前だと思いましょう。
母親VS3人の子供という図式を少しずつ変えてみましょう。
もっとみんなでフレンドリーになればいいのではないでしょうか。
私は子供とはお友達になっています。
あまーり❝親ヅラ❞をしない、という意味です。意思疎通の方が大事だからです。
母親という姿勢を貫こうとするとどうしてもうまくコミュニケーションが取れないことだってあると思います。
そのどうしようもないおとーちゃんに対する結論がバイオレンスやBLOOD&DEADエンドな印象のままですと、ぐれてしまうと思いますから、今はお母さんから家族会議を開いてあえてお父さんを"赦す"方向性を示してあげてください。
「パパのことは本当にごめんね。ママも悪かったの。パパがあんなふうになっちゃったのは実はこういう事があって、それでイライラしてあなた達にぶつかってしまったの。しばらくみんなでパパが優しくなるまで辛抱してね」みたく誠心誠意を示す。
ぐれたり、面白くねー、とか親の金を盗むのも【代償】的な行いなのです。
親はまず、どーんと構えて自分の家に放火するまでは些細なことと思うつもりでいましょう。
おそらくしばらくはあなた達夫婦が一緒になることはないのかもしれませんからあなたにとっては一つの役割❝DV夫の妻❞という役割から解放された、終えられたのだと思いましょう。
そこにスペースが開いたはずです。
子らの暴れん坊ぶりはそのボックスに入れてあまり過剰に反応せずに大きく長く見守りましょう。
子供と思ってみないでください。
子供と思ってみないとは、もう一人前の尊厳を認めてあげるという事です。
お子さんたちだってお父さんがいなくなったのですから、不安になっているのは当たり前なのです。
今、困っているのはあなたなのです。
子供が思い通りにならなくてイヤだ、子供があれこれしてイヤだ、というのは外の問題ではありません。
あなたがそこに善し悪しの思いを立てておられるのです。
つまり問題を一本化する事から始めましょう。
どんな問題も、それを気にしている私の心の問題であるとみるのです。
そうでないと、アレもしなきゃいけない、これもしなきゃいけない、やることや問題が多すぎてノイローゼになってしまいます。
問題を単純化しましょう。またどうぞ。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

❝親の都合からみると❞曲がってみえるだけで自然な反応です

それは大変でございました。
子供が親の金をパクることなんざ一度や二度や三度や10回20回当たり前だと思いましょう。
母親VS3人の子供という図式を少しずつ変えてみましょう。
もっとみんなでフレンドリーになればいいのではないでしょうか。
私は子供とはお友達になっています。
あまーり❝親ヅラ❞をしない、という意味です。意思疎通の方が大事だからです。
母親という姿勢を貫こうとするとどうしてもうまくコミュニケーションが取れないことだってあると思います。
そのどうしようもないおとーちゃんに対する結論がバイオレンスやBLOOD&DEADエンドな印象のままですと、ぐれてしまうと思いますから、今はお母さんから家族会議を開いてあえてお父さんを"赦す"方向性を示してあげてください。
「パパのことは本当にごめんね。ママも悪かったの。パパがあんなふうになっちゃったのは実はこういう事があって、それでイライラしてあなた達にぶつかってしまったの。しばらくみんなでパパが優しくなるまで辛抱してね」みたく誠心誠意を示す。
ぐれたり、面白くねー、とか親の金を盗むのも【代償】的な行いなのです。
親はまず、どーんと構えて自分の家に放火するまでは些細なことと思うつもりでいましょう。
おそらくしばらくはあなた達夫婦が一緒になることはないのかもしれませんからあなたにとっては一つの役割❝DV夫の妻❞という役割から解放された、終えられたのだと思いましょう。
そこにスペースが開いたはずです。
子らの暴れん坊ぶりはそのボックスに入れてあまり過剰に反応せずに大きく長く見守りましょう。
子供と思ってみないでください。
子供と思ってみないとは、もう一人前の尊厳を認めてあげるという事です。
お子さんたちだってお父さんがいなくなったのですから、不安になっているのは当たり前なのです。
今、困っているのはあなたなのです。
子供が思い通りにならなくてイヤだ、子供があれこれしてイヤだ、というのは外の問題ではありません。
あなたがそこに善し悪しの思いを立てておられるのです。
つまり問題を一本化する事から始めましょう。
どんな問題も、それを気にしている私の心の問題であるとみるのです。
そうでないと、アレもしなきゃいけない、これもしなきゃいけない、やることや問題が多すぎてノイローゼになってしまいます。
問題を単純化しましょう。またどうぞ。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ