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ヨガなんかしている場合なのか…

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お世話になります。

46歳で彼女無し独身。
仕事は非正規雇用。
お金はそれほど持っていません。

そんな私ですが、趣味でヨガをやっています。
アシュタンガヨガというインドの僧がやっていたと言われるかなりハードなヨガをやっています。

仕事が終わった後、もしくは週末に週に2〜3回、片道25キロかけて習いに行っています。

ヨガをやっているととても楽しいです。
周りは年下の方、女性が多いですが、私と同年代の方はあまりいません。

やっているときはとても楽しいのですが、ふっとヨガなんかやっていていいのだろうか??
と意味もなく不安になります。

取り急ぎ他にやるべきことはありませんが、それでもヨガなんかやっていていいのだろうか?と不安になります。

そんなことをやっている私を見てどう思われますか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ヨーガにも用が無くなるくらい自己を明らめることでしょう

シャレではありませんが、ヨーガに用が無くなるといいでしょう。(シャレだ)
坐禅も坐禅の要点がはっきりしてくると❝座る座禅❞にばかりこだわらず、少しずつ四六時中の禅定になっていき、だんだん座る坐禅だけが坐禅ではないとはっきりしてくるのです。その結果、シャレではないですが、座る坐禅にもヨーガにも用がなくなってくるという事もあります。(シャレだ、完全にシャレだ)
だからと言って坐禅をまったくしないわけでもありません。
坐禅の要点がこの自身の活動に対して「わたくししない」ことであるため、歩いていても坐禅をしていても、私の隣で今ウサギのエサの藁をまきちらかしたり、兎の小屋をガンガン揺らして壁にゴンゴンしている子供をみても「わたくししない」為に放っておけるのです。(ウサギ、かわいそうだぞ。)
パタンジャリのヨーガスートラでもヨーガとは心の作用の死滅がヨーガであると説いているように、ヨーガの要点をあきらかになされば、ヨーガが何を目指し、どういう心がヨーガであるのか方向性がハッキリするでしょう。
ヨーガをやるにも仏道を学ぶにも、【よそごと】としているから、いくらやっても得るものがないような感じなのではないでしょうか。自身の一生の事を明らかにする。今後数十年という人生の中で心騒がす自身の自我やエゴ、自分の物語というものがいつも邪魔をしている。
そこから自由にならざればいくらヨーガをやってもシヨーガないと思います。
世の人は健康の為に、自分の為に、美の為に、という方もおられるでしょうが、健康を祈る間も衰えゆく我が身です。生老病死、四苦八苦、そして今回のお悩みのようにどうしても避けられないものが迫り来ているという事実をよくみて、さぁて、そこからどうするかが本当の意味で仏教や禅やヨーガに用がある、といったところでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

ヨガと坐禅

拝読させていただきました。

ヨガいいと思います。身心の健康にも良いですし、やっていて楽しいのであればなにも問題ないのではと思います。

ヨガの目指すところは坐禅とおなじです。自分からの解放、自由です。「自分が自由に!」ではなく「自分の思い込みから自由に!」です。

自分が持つ常識とか考え方に、あらためて距離をとることができれば、これからの自分の人生にも新しい可能性が開けてくるのではないでしょうか。

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おきもち

若輩者ですが、宜しくお願い致します。

質問者からのお礼

丹下 覚元様
コメントをありがとうございます☆
とても温かな気持ちになりました。
ヨガ=力みをなくすように心にゆとりをもってそれが日常にいかせるように楽しんで続けて行きます!

宗像義順様
コメントをありがとうございます☆
ヨガなんか出来る幸せを感じてこれからも楽しんで続けて行きます!
そして、なんと奇遇な…私も新発田市在住です。
寺町のあたりはよく通ります!
今度、機会をあったらおじゃまします。

本当にありがとうございました。
ご縁にも感謝です!

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ