死んだ後、地獄へ行かないために。
40代、無職、独身、天涯孤独(両親は母親はがんで病死、父親は借金苦で自殺)彼氏も友達もおりません。
学生時代もいじめられて孤独、会社も仕事もできずくびになって以来
引きこもりです。
どこをどうひっくり返しても、幸せだって思えた瞬間もありませんし
体験も皆無です。
無理に幸せと思おうとして生きてきましたがもう
ネタ切れです。幸せは考え方次第、ともいいますが本当に、全く
ないんです。もし死んだとしても、(孤独死か餓死でしょう、全く相談できる人も理解者もいませんので、たった独りの自分だけの力でどこまでできるかわからないので)悲しんでくれる人もおりません。
この辺信じてもらえないことが多いですけど、本当です!!
餓死=自殺扱いですよね?
このサイトで必ず自殺者は地獄へ行く訳で
ないというのを読んで少し心が軽くなりましたが、私でも大丈夫でしょうか、、、。必ず地獄送りでないのなら、精一杯できることやって
みようかなという気持ちになってきました。
死ぬこと自体は全く怖くないし、この世に未練もありません。
ただ死んだ後まで、もう苦しみたくないだけなのです。
生まれ変わることにも抵抗ありません。
今の自分が消えてくれるなら万々歳ですから。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
臨終待つことなし、来迎たのむことなし
浄土真宗の正依の経典である『仏説無量寿経』には、
念仏するものは臨終の際に、阿弥陀仏という仏様がお迎えに来てくださり(来迎)、極楽浄土に連れていってくださる
と説かれています。
しかし、こう説かれても「私の思い」ではとても信じられません。誰も死後から帰って来て「ワシほんまに極楽行けたわ!」と教えてくれる人もいませんし。この世に死んだことのある人はいません。死後は結局「わからない」。そして「わからない」ものに人間は恐怖します。
しかしその恐怖の原因をよくよく深く考察すると「わからない」ものを「私の思い」で勝手に「わかった」ことにして、勝手に苦しんでいるのです。
誰も見たことのないものを
・こうすれば極楽に行ける・こうすれば地獄に行かない・あれは地獄行き・これも地獄行き
だれが見てきたんや!っちゅう話です。
歎異抄という書では、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は
「念仏は本当に浄土に生まれる原因なのか、地獄に落ちる行為なのか、わしゃ知らん。」
「どんな修行も全うできず、仏になることのできない身であるので、どうあがいても地獄こそ私の必然的な居場所である。」
と言われたと伝えられています。
「こうすれば地獄に行かない!」「こうすれば極楽にいける!」という私の思いは結局地獄の存在を信じていて、地獄への恐怖の裏返しとでも言うべきものです。
それを超えた境地が「地獄だって極楽だってどっちだっていい!もともと地獄行きなくらいの我が身や。あとは私の分限にないのでおまかせや!」というものです。
死後に「私の思い」を差し挟んでも悩み苦しみが生まれるだけです。
私の思いを挟まず素直に教えを聞くならば、
「念仏すれば極楽行きです」→「はい、ではおまかせします。」
で完結です。「臨終待つことなし、来迎たのむことなし」です。
私の思いを挟まぬのなら「今」、極楽浄土行きの切符が手に入るのです。
だって阿弥陀様は「あれだめ、これだめ」言ってませんから。
「あれだめ、これだめ」言うて勝手に苦しむのが「私の思い」です。
わからんものはわからんと認めて阿弥陀仏に「おまかせ」しておきましょう。
あとは、この世をしっかりと生きることに集中しましょう。死後への「私の思い」による苦しみで、「今」も苦しむのはもったいないです。
南無阿弥陀仏
どうせ死はいつか、自然と訪れるもの
死後の世界なんて、正直だれもわからないんです。
ブッダでさえ、死後の世界については語りませんでした。
死後の世界についてあれこれ考えるより、今の人生をより良く生きろと。
そこまでお悩みのようなら、気休めの綺麗事も、「極楽も地獄もあなたの心にある」といっても、本当に悩める人にとってはなんの解決にもならないでしょう。
空海は、「仏は外にあるのではない、仏は自分の心、すぐ近くにある」と言っています。
これは、気休めでもなんでもありません。
宇宙の全てが仏であり、風も、火も、雨も、石も、建物も、動植物も、人も、人の心も全て宇宙という多いなる生命の一部であり、そしてそれら全てが宇宙を形成しています。
あなたは仏(宇宙の真理や生命)の一部であり、そしてまた仏は私やあなたのような全てによって成り立っています。
身体の細胞の如くです。
そして、ほとけ(宇宙)から生まれた私たちは、またほとけへと還っていきます。
遅いか早いかだけです。
そしてまた、ほとけの子として生まれてくるのです。
毎年芽吹いては枯れる木の葉の如くです。
死後の世界を恐れる必要はありません。死は生の一部です。
どうせいつか訪れる死。ならば、どう死ぬか、ではなくどう生きるか、を今一度考えてみてください。
極楽浄土に往生なさります様に
拝読させて頂きました。ただひたすらに仏様に極楽浄土へ生まれさせて頂きます様にと 南無阿弥陀仏 とお念仏おとなえなさってください。
あなたが心を込めて仏様の浄土に生まれたいと願い 南無阿弥陀仏 とお念仏おとなえなされば必ずやあなたがその生命を全うなさる時には仏様があなたを導いてくださいます。
そして仏様の浄土に生まれて心から安心なさり解放されて仏様から正しいご説法を聞き、真の智慧を受けて仏となられていくのです。
悩み苦しみも一切ない永遠に迷うことのない浄土です。
そこはもはや地獄も我欲にまみれたり争うこともないところです。
そこではあなたは自分の親しい方々に再び巡り会います。そして再会を喜びあい共に仏となっていかれるのです。
あなたにもあなたの生命が全うなさった後にこの迷いの世界を離れて、極楽浄土に往生なさりご成仏なさって頂きます様にと心を込めお念仏おとなえさせて頂きます。
南無阿弥陀仏
生活困窮者自立支援制度(厚生労働省)
ゆうりん様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
少し悲観的になっておられるご様子・・誠におつらいことでございます。
拙生も、地獄に落ちたくないと、ずっと思っておりましたが、ある時から、地獄に落ちたいと思うようになりました。
地獄というのは、この迷い苦しむ輪廻における心のありようの様態の一つのことで、針山が、釜茹でが、と色々と表現されていますが、それはあくまでもこんな感じという苦しみの比喩的な想像のものであると考えております。
もちろん、確かに最も迷い苦しんでいる心の状態であることにはなるでしょうが、その原因は、天道であろうが、人間道であろうが、餓鬼道であろうが、変わらず、「煩悩」とその親玉である「無明」(根本的な無知)と、それらによる行いである「悪業」となります。
仏教は、その輪廻の原因である煩悩・無明を、仏道を修することによって対治し、功徳を積むことにより悪業を無くし、悟り・涅槃という究極の楽・幸せに至ることを目的と致します。
正直なところ、これまで拙生も、いったい何度、地獄へと落ちてきたことでしょう・・
数えきれないぐらいに何度も落ちてきてますから、今さらまた落ちることにそう抵抗もありませんが、幸いにも今は人となりて、仏法にも出逢え、そして、少しずつでも心の相続を清らかな流れへ向けるための機会に恵まれることができております。
もちろん、その流れの中でも、また地獄へと落ちることもあるでしょうが、今では、地獄に落ちれば、必ずや地獄のものたちを少しでも救えるためにこそ、仏法をしっかりと修しておきたいという気持ちも持っております。
人間道などの上の世界に比べて余裕が限りなくない地獄の世界において功徳を積むことができれば、その功徳は、上の世界で積める功徳の何倍にもなることでしょう。悟りへと至るために必要な功徳を、地獄においても何とかしっかりと積ませて頂きたいと存じております。
上記はとりあえずとして、先にてどうしても生活に困窮されましたら、厚生労働省による生活困窮者自立支援制度が平成27年度から始まっていますので、自治体の行政関連窓口にてご相談なさられてみて下さいませ。就労へと向けた支援もあるようです。
生活困窮者自立支援制度
https://goo.gl/97gn9h
善処を祈念申し上げます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
お返事、有り難うございます。綺麗事は通じない、とおっしゃっていただいてわかっていただけてるなと思いました。前向き、とか努力が足りない、甘えている、もう耳にたこ状態です。
一度私の人生を生きてお手本見せてほしいとよく思っていました。
生活困窮についても教えていただきありがとうございました。