ありがとうを100回
質問させてください。
アドバイスをいただけたらありがたいです。
自分が関わる人間関係で自分が全て悪いわけではないんですが、なぜか私だけが悪い事になり、仲裁に入った人が問題を大きくしてしまい、どうにもならなくなった結果私が悪い事になり仲裁に入って方からものすごく色々言われてしまいました。
反論したいこともありますが、色々な人間関係を考えると反論も出来ず私が悪い事になっています。
幸い味方もいてくれているので、ここは反論もせず、誰が悪いのかも追求せず自分が今できる事をしようと切り替えました。
相手を許せない気持ちが自分を支配してるので、ありがとうを100回言ってみると良いと聞き100回言ってみました。
許せていないのが正直な気持ちです。
もっともっとありがとうを言えば許せなますか?
どうすれば許せますか?
教えていただきたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「有り難い」を見失わせる「私の正しさ」
「許す」というのは難しいことですね。
私の考えですが、人を許せない時はやはり「私が正しい」「私は悪くない」という意識が大きいのではないでしょうか。
そう考えながら言葉だけで「ありがとう」「ごめんなさい」をいくら言っても中々気持ちはついてこないかもしれません。
今回のトラブルについて原因や状況はわかりませんが、ご自身で「自分が全て悪いわけではない」とおっしゃるのなら、「自分にも少しは悪い所はあった」とお考えなのではないでしょうか?
しかしながら
私も少しは悪い「けど」、相手がもっと悪い。仲裁者がもっと悪い。
というように、周りの人の責任ばかりに目がいっているように感じます。まずはたとえ少しの責任だとしても、自分にも責任はあったのだと、「共有」するところから始めてはいかがでしょう。
「私は正しい」という立場は「共有」でなく「おしつけ」です。
仏教的に言えば「正しい人間」などいないでしょう。それが人間の行い・人間の考えである以上は完全ではなく、一面から見れば正しくとも他の面から見れば正しくないという程度のものしか我々は持ち合わせていません。
本当に「正しい」ならどうして人とぶつかることがあるでしょう。結局その正しさは「私にとって」という閉鎖性をはらんだ小さな世界なのです。
どんな小さな非であろうと、私にも確かに非はあったという事実から目をそむけず、問題の責任を共有できるのであれば、私が相手を許すも何も、「実は私が許されて今ここにいるのだ」という大きな視野に包まれるのではないでしょうか。それが仏の教えに照らされる大きな世界です。
そこに、今私が多くの関わりの中でたまたまここに存在できていることへの気づきが生まれ、自然と「有り難い」という気持ちも生まれるのでしょう。
怒りあえる相手も、仲裁してくれる相手もここに「有る」
怒る私も「有る」
支えてくれる見方も「有る」
有る ある ある
みんな有り難くも私のまわりに有るのです。
あなたがいくら怒っても誰もとりあってくれない世界は孤独です。
ある ある ある
「私の正しさ」はそういう今ある世界を見えなくしてしまいます。おかげ様・お互い様です。
許し・許され、支えあって生きていきましょう。
頭の中での解決など実際の世界で解決していないという事
無理矢理脳内アファメーションのたぐいは自分に嘘をつくようなもんです。
罪を犯していないのに赦してやるから❝やった❞と思いこまされて自白を強要させられるようなものです。
オマエガヤッタンカ" ハイ、ヤリマシタアリガトウ❤アハハハ
(-""-) (*´▽`*)
脳内嘘情報や二次的情報の前に第一次の絶対的な真実があります。
第一次の絶対的な真実とは人の見解以前、評価以前。
何でもかんでもあなたのせいにされてしまうのはたまったものではありません。
週刊誌の芸能人ネタの多くは、ありもしないことをそうであるかのように二次的に書いていますが、皆、虚構の世界です。
「ありがとう〇〇回」というのは一種のアファメーションでイワシの頭で治ってしまう暗示にかかりやすい方や騙されやすい方に勧める世俗の正規宗教にならない、なんちゃってキラキラ教です。効果があるにも程度があるものです。世間にはそういうものがよくありますが、効かなければ所詮子供だましの気休めでと見限ることです。ウチの本棚にも山ほどあります。それが効かないという事は効かないのです。効かなかったのですから。
効かないという事はあなたは理知的な人なのでしょう。
別角度から言えばひょっとすると頑固な自我・エゴ・正しさがあるとも言えるカモしれません。
ですが、喩えですが、被害に遭ったのに「ありがとう〇〇回」で全部治ってしまうなら歴史上の罪は全てゆるされてしまいます。悪い人が喜んで被害者がありがとうの中で泣きをみます。(ToT)アリガトー
いくら自分が悪いんだと考えても納得いかない、本当におかしいぞ、と思う場合は相手や周りの方がおかしい場合があるものです。何もかんでも自分のせいにしてしまう必要はありません。世の中には力関係で押さえつけられてしまう泣き寝入りな被害者があります。
あなたがそうでなければよいのですが、どう考えても他の人が悪いことをあなたのせいにされて、それをありがとう100回で無理矢理何でもなかったことにしようという事自体、理不尽極まりないもんでしょう。
ゆるすとは、自分の執着を緩めることです。
自分の正しさをいったん手放すという事でもあります。
そうする事で冷静に物事の真実が見みてきます。
自分がいけないという思いも含めて執着を緩めることです。
物事の真相・真実が明らかになるでしょう。
事実は想念・情報にまさる。