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感情よりも思考に走ってしまいます。

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私は自分の気持ちがないのではなく、わからないのだと思います。

凄く辛い気分はあっても、その時にすぐ「何がどうして」という感情に至りにくいと思います。

カウンセリングの先生のお話ですと子供の頃から私の全てを否定されて育ってきたため、自分の気持ちを出そうとして、間違いだと思い自分を否定して自分の気持ちを中に閉じ込めてしまってわからなくなっているそうです。

こちらでも色々なアドバイスを頂き、一時よりはわかるようになったのではないかと思いますが、自分自身を否定しすぎるクセがまだまだ残っているように思います。

また、感情になるのに、後で思い出して腹が立ったり悲しかったり悔しかったりとすぐには出てこず時間がかかります。

感情よりもまず頭で考えるクセがついている気がします。

これは雑念に入るのでしょうか。
よくないでしょうか。

それとも雑念だ、と気にしすぎない方がいいでしょうか。

ここの問答を見ていてもたまに自分自身の状況と似ているものを見ると、ずきっとしますが感情で気持ちが出るよりズキッとした気持ちを和らげたいために色々頭の中で考え込んでいる自分がいます。

ここの問答に限らずそういうことが多いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

良い性格ですね

感情的になって人生をしくじる人は多いものです。思ったことをすぐ口に出してしまうと人間関係を損なうことが多いのです。言いたい事は朝言え という事を私は母から言い聞かされて育ちましたが、朝というのは翌朝のことですね。向っ腹が立っても一晩経てば冷静になるので、すぐには口に出さない。
これは大事なことです。自分の喋る言葉を眺めながら話しましょう、などと私はよく講演で話します。
人はみんな個性が違っています。一人ひとり違うから人生は綾があって面白く楽しく過ごせるのです。

深く考える人が少ないことをいつも嘆かわしく思っていますが、あなたのようにまず考える癖があるのは美点ですね。慌ててものを言ったら得ることより失うことが多いかもしれないのです。私たちは言葉、考えを伝え合うことで関係が成り立っていますが、感情が先走らないのはあなたの美点です。

感情が先走るよりは、ありのままのあなたでいいのではないでしょうか?今まで50年も生きてこられたのですから自信を持って人生を眺め考え楽しんで下さい。

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有り難し
おきもち

楽健法と楽健寺の天然酵母パンを普及しはじめてかれこれ半世紀になります。楽健法も楽健寺の天然酵母パンもマスコミによく取り上げられています。

その感情も思考に基づいていませんか

たとえばものや相手を眺める時に、正しくそのものや相手を見ている時は、腹が立ちません。

①スーパーで行列
②雨が降ってきた
③渋滞
④電車を乗り過ごした
⑤ラインが入った
⑥人と目が合った

その通りに見ている時は、

①スーパーで行列「あー、並んでる。(だけになる)」
②雨が降ってきた「あー、雨だ。(それだけ)」
③渋滞「あー渋滞だ。(問題が生じない)」
④電車を乗り過ごした「あー乗り過ごしたわい。(減りも増えもしない)」
⑤ラインが入った「あー、へー、そうなんだ。(既読のみ)」
⑥人と目が合った時「あ、目が合った。(余分な推測・臆測が入らない)」
💀
ところが、思考を織り交ぜたり、自分を中心に物事を眺めますと。
💀
①スーパーで行列「ったく!いつまで待たせるんだよ!」
②雨が降ってきた「マジ?傘ないよ!ツイてない。凹」
③渋滞     「なんで!私だけこんな目に!酷いわ!(あの…みんなもです)」
④電車を乗り過ごした「ふざけんな。止まれ、戻ってこんかーい。緊急停止ボタン!(捕まります)」 
⑤ラインが入った「何このメッセージ。どういうこと!?(裏読み、深読みし過ぎ)」
⑥人と目が合った「じろじろ見てんじゃねぇよ。何コイツ、キモ!ストーカー!?(誰もそんなこと言ってません)」
…みたくなります。

さて、ここに共通することがあります。
「自分を中心とした自分に引き寄せた目線」です。
物事とは上手な距離感が大切です。
私の目の前には、小さなヤモリがいます。気持ち悪くもありません。可愛らしいです。
先日は電車に乗り過ごして終電も逃しました。大雪でした。何も減りも失いもありませんでした。あ、お金はチョットかかりましたが、大雪の中タクシーが来てくださっただけでも本当にありがたかったです。
物事を眺める時、思考を交えないでダイレクトに見てみましょう。
いつも間に何か挟まっているんじゃないでしょうか。
フィルターなしに、思考なしに。
物事が起こっているその通りのことをそのままに。
それ以外の事が起こっている訳ではないのですから。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

山内 宥厳 様
ご回答ありがとうございます。
すぐに感情を出せないのは問題だとずっと思っていました。
美点であると言っていただいたのは初めてです。
ありのままの私に自信を持つようにとのお気持ちをありがとうございます。
こういう考え方もあるのだなと思いました。
お陰さまでまた少し自分を認めていけるようになれそうです。

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丹下 覚元 様
ご回答ありがとうございます。
お久しぶりです。
何かあったのだろうか、忙しいだけだろうかと妄想しておりました。
今、ホッとしております。
大雪の中を乗り過ごしたのは大変だったと思いますがご無事でよかったです。

フィルター無しに見る視点に近づけたらよいな、と思っています。
以前よりは色眼鏡の色も薄くなっているのではないかと思っています。

「自分を中心とした自分に引き寄せた目線」
に意識しないとなりやすいですね。
主観というものでしょうか。
でもその主観からしか見ていないと、井の中の蛙大海知らずで、フィルターがかかってしまうのですね、多分。
そういうことでしょうか。

先ずは今の私をフィルターなく見て、周りもフィルター無く見れるように思い出して意識しようと思います。
ありがとうございます。

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