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仕事先で悩んでます。

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有り難し有り難し 15

お久しぶりにこちらに質問いたします。毎度お世話になっております。

私は、以前働いてた場所をやめ、新しい場所で今は働いてます。お仕事自体はとても楽しいです。ですが、色々悩んでしまってます。

まず、私は、12月に今の場所で働き始めました。1月から店長が代わり、2月には現店長以外お店のわかるかたがいません。私もわからない一人です。

人はやはり足りず、今は、店長、私を含め五人体制ですが主婦のかたは早く帰る形をとってます。

そこで、休みの日などを書いてほしいと言われていたのでこちらにも予定があるので書いたのですが店長に「今までみたいに書かないで」といわれました。「〇〇さん(主婦の方です)が一日中いる訳じゃないし」とも言われました。あげくのはてには「〇〇(主婦の方)が休みになったら代わりに来てくれる?」とも言われました。

わからなくもないんです。ただ、こちらの予定は少しは聞いてほしいんです。「休みになったら、代わりに来てくれる?」も、私は、母親の病院の付き添いがあるためお昼には終わるものの家事手伝いも含まれてるのでいくことは難しいです。

でも、曖昧な回答をしてしまいました。ちゃんといえばよかったのに、言えませんでした。このまま、これを通されると私は、週6の連勤を遠回しに強いられてる気がしてなりません。(今の場所は完全週休2日制です)

休みも予定があるといいたいですが、いうに言えません。怖いです。今回かいた中には、数ヵ月前から計画をたてていたものもあるので、今回だけは通してもらいたい気持ちもあります。

もう、どうしたらいいかわりません。休んでも「来てくれる?」と電話がかかってきそうで今から怖いです。私は主婦のかたとは違いいつでもこれるでしょ?みたいに思われているのもしんどいです。

休みたい、と思う気持ちはやはりわがままなのでしょうか?ちなみに、4月は忙しいため六連勤らしく今からちゃんと働けるか怖いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたはあなたの人生の中で店長なんかよりももっとエラい。

あなたの人生です。人に迎合していたずらに心身を疲弊させてなんとするのでしょうか。
どんなに親しい親友同士であっても、愛し合っている夫婦・恋人関係であっても、天皇陛下であろうとも、あなたの人生に於いては、あなたの命こそが一番尊いのです。
その尊厳を感じてください。
そして、その尊厳の領域を犯してまであなたをその相手の思う通りにしようという気配を感じるような人は、そもそも人としてアウトだと思ってください。
こっちの都合も聞かずに、、、では、あなただけが無駄に苦しみます。
他人さま、同僚、上司部下の関係は、お互いを尊重し合うべきものです。
あなたの時間や都合や人権や尊厳を無視して、むりやり強いてくるのは断るべきです。
世間にはブラックと認定されていないだけで事実上ブラックな職場は山ほどあります。
修行道場も神聖な場所かいなと思いきや、出くわす人によってはとんでもない悪の巣窟だったりするものです。あなたと人とのめぐり合わせだけはあなた自身が左右することはできません。ここでの回答も私がしてしまって申し訳ないですが、その巡りあわせが望ま唖しいものでなかった場合は、あなた自身の力で回避、軌道修正、方向転換するより他にないのです。
人生の中であなたの命の管理者は店長ではありません。人がその職場を離れていくのには原因があるのです。それは店長の千喜良不足というもの。人望の無さというもの。相手を尊重していない体制を維持しているというだけのことであなたは別に恩義に感じる必要はありません。
あまりにメチャぶりなお店ならば変えればよいのです。
それは逃げるのではありません。
あなたの尊厳を守ることなのです。
そこを誤ると、世間のブラック企業病みの方々のように、自身の尊厳までもが会社のエゴの為に奪われてしまいます。
大いに、断ち切ってください。あなた自身を守るために。
言われやすい、言いやすいという流れはあなたの反発によって変わるのです。
自分に無理をしたり嘘をついてイイ人を演じてもあなたの身心がボロボロになるだけです。
本当にあなたを守ってくれる職場を選択されるべきです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お返事ありがとうございます。

今回コメントをいただき、言おうという決意がつきました。今は忙しいためいう暇がありませんが、今週あたりに落ち着くためいってみようと思います。
死んだり身をボロボロにしたら元も子もないなと思いました。

前の仕事場では言われるがままだったので、今回は絶対にならないようにしたいです。

ありがとうございました!

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