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何度か質問しようと思ったのですが、

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有り難し有り難し 37

初めまして。質問といって良いのか分かりませんが…

ここ数年仕事に家庭に大小の波があり、大変な思いをしつつもなんとか立ち向かっています。
そんなときにこのサイトに出会いました。私もアドバイスなどいただけたら力強く前に進めるだろうと思いました。
しかし、毎回質問を下書きしている間になんとなく気が済んでしまいます。
とはいっても、困難が解決しているわけではないので、これで良いのだろうかと考えてしまいます。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

何をもって本当に是と言えるか。よし、とうなずけるか。

はじめのきっかけは何であっても良いと思います。
わたしも昔は小さな問題はそれが解決すればそれで十分でした。
ある時疑問に感じたことがありました。
坐禅会に何年も通っていても、一向に自分自分した生き方をしている人がいました。
「何の為に仏教を学んでいるのだろう?」
その人は自分を潤すことしかやっていない人でした。
老師は言われました。
「月に一度、薬がきれたころにやってきて、話を聞いたなんかいい気分になってまた帰っていく。その繰り返し。それでは、いかん。」と。
仏教は、坊さんにイイ話を聞いて助けられて終わってしまう人たちが大半ですが、本当は違います。
その人たちが、助けられた、目を覚ましてもらったことを機縁として、自らが仏道修行に目覚めて、主体性を持った活動をしていくことです。
いずれ誰もが生老病死・愛別離苦・求不得苦・怨憎会苦・五蘊盛苦に直面します。
そういう避けられない苦しみに出会った時、向き合わざるを得ません。
しっかり向き合って、根底から根こそぎ救ってしまう力を持つのが仏道です。
その求めの必要性を感じた時に、真剣に求めればよいと思います。
仏教・仏道に対する求めのレベルは人によって異なります。
ただ、仏教というものがこの世に存在する理由をゆとりがある要でしたらお考えいただきたい。
お坊さんが、仏教とやらを誰かに伝えるのではないのです。
坊さんだけが、坊さんらしい生き方で、やさしい心を広めたり、世間に善玉菌を活性化させるわけではないのです。
仏教には人間の我欲を離れた、非・エゴ的生き方=仏教的な生き方があります。
あなたはあなたで、ご覧になられる方はご覧になられる方で、それぞれが自分の人生の中で、自分自分した生き方であるエゴ・自我・我が身可愛がりの心を少しずつでも離れて、より良い生き方を選択して向上して行って頂きたいと思います。
あなたはあなたの人生があるのです。あなたの人生の中でどうしても避けられない困難があるのです。
その困難を根本から解決して、人の苦しみを取り除き、安楽を与える"生き方"
発菩提心 修菩薩道
今日幸せであれば今日、幸せのままに。
ですが、幸せであってもなくても、どうか、周りの方々に施しをしてあげてください。
それが仏教徒であっても無くても、仏教的生き方=幸せの続いていく生き方なのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

こんばんは

 なるほど。そうですね。
 書くことで、問題が整理され、すっきりすることがあります。
 また、ここでいろいろな質問を拝読して、実は(本人は気づいていなくても)質問の中ですでに答えが出ているものもあります。
 ですから、それで良いと思います。

 質問しなくても、ここで下書きするだけ。それでなんとなく気が済む。そのような利用方法もあるんだなぁと思いました。

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おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

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