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姉との関係を改善したいです

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歳の離れた姉がいるのですが、昔から仲良くできず悩んでいます。

小さい頃から衝突が多く、亡くなった母からは似た者同士だからお互いの嫌なところが余計目について喧嘩になるのではないかとよく言われていました。

ただ完全に嫌いという訳ではなく、時々一緒に買い物をすることもあるし、母が亡くなってからは特に色々な面でお世話にもなっているので感謝しています。それでも姉の些細な言動にイライラしたり、嫌味な言い方ばかりされているように感じたりすることの方が多くて、つい最近も私の将来のことなどでひどい言われ方をしてから顔を合わせるのも正直苦痛に感じています。

家族という関係でいる以上そう簡単に縁は切れませんし、心の底から嫌っている訳ではないのだからとりあえずうまくやろうと自分なりに割り切っていたつもりですが、最近それも限界に感じます。亡くなった母はこんな私を見て悲しんでいるだろうかと考えると申し訳なくて更に苦しいです。

本当は大学を出て就職するタイミングで地元から思いきり離れて姉と距離を置こうと思っていましたが(大学は地元に比較的近くて家族に会う機会も多かったので)県外での就職活動がうまくいかなくて結局今まで通り姉のいる地元の近くに決まり、いつか県外に転職することがあるとしても簡単にはやめられないので、私はこれからも姉から逃げられないのかとお先真っ暗な気持ちにもなっています。

血が繋がっていて、しかも今までたくさんお世話にもなっている家族に対してこんなことを思う私は薄情なのでしょうか。今までも私なりに姉のいいところを見つけてみるなどして関係をよくしようと努力したつもりですが、足りなかったのでしょうか。今後もどちらかが死ぬまで関わりは続くのでほんの少しでもこの苦しい状況を改善したいです。よろしければアドバイス等お願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仲良くしなくていい。尊厳を認めてあげればいいのです。

私にも兄がおりますが昨日も結婚式で久しぶりに会いましたがほとんど口をききません。
別に嫌いではありませんが、幼少期から成長するにつれてだんだん、それぞれ別々個々で生活していくようになったので、お互い独立していたのでしょう。
兄弟姉妹は仲が良い方が「のぞましい」ものです。
ですが、兄弟というのは「お家・家族のルール」があるが故に、お互い衝突してぶつかり合ったりするものでもあります。
顧みますと日本はお家制度・お家ルールというシバラレの歴史の中で今日までやってまいりました。
お互いをお互いのルールで縛り合わない関係の方がかえってうまく行く場合もあるのではないでしょうか。
そもそも仕事や性格、学んだ学校、教わった先生、遊んだ友達…、みんな違うからです。
「出家の関係」を「アナ雪」にみてみましょう。
アナ雪のエルサとアナはケンカして仲が悪いのでもなく、べったりでもありません。
兄弟姉妹というものは結婚するとだんだん疎遠になります。
「わたし」「うちの家族ルール」というものが、無くなっていった方がお互いの尊厳を尊重し合えるものではないでしょうか。
私は良い意味での「出家」の関係が良いと思っております。
決して仲が悪いのではなく、お互いの尊厳を尊重し合って、それぞれ才能・能力のジャンルも異なる存在ですが、同じ親を得んとしてこの世に誕生してきた仲間ですから、切っても切れない関係であるのです。
お釈迦さまも、ご家族を出家させました。
関わりは断ち切っていないのです。
「わたくし」というマイルールがそこにないだけなのです。
自分の中でそういうお家ルール、家族ルールによるシバラレからくる感情があることに眼を向けてみてください。
そして、そのロープのしばられを解くのです。
するとお互いが赦されます。
最初から父母という存在の縛られもなかった。
あなたはあなたで、お姉さんはお姉さん。私は私で、兄は兄。兄は私の持っていない個性、能力を沢山持っていますから、私は兄弟であってもリスペクト、尊敬しています。それが出家であり、尊厳を認めた有り方です。反対にワタクシすると比較や競争になる。
あなたはあなたでいい。お姉さんはお姉さんでいい。
アナはアナでエルサはエルサでいいのです。ケンシロウはケンシロウで、トキはトキで、ラオウはラオウで、カイオウはカイオウで、ジャギはジャギでそれぞれ最高なのです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。私は私、姉は姉でいいのですね。今まで、家族だからと無意識に縛られを作ってしまっていたのかもしれません。
仲良くしなければと考えるより、私にはない姉の個性や能力を尊重していこうと思います。

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