人生の勝ち負けは何が基準?
病室で隣のベッドのひとに言われていました。「病気になって可哀想だけど人生に負けたんやね。幸せないやんね。」
この一言に愕然。聞いたその日から、ぼーっとしていました。
たまたま、よその病室の奥さんのお見合いにきてみえたご主人と話ていて「わたし病気になったから負けたんよー。いろんなもんに。」ぽつりと言ったら怒られた。
思い出せる内容です↓
「勝ち」はどうなったら「勝ち」なのか。ひと様を騙して金持ちになったら「勝ち」なんか?
仕事で出世したら「勝ち」なんか?
病気になって手術して、生きていて話せることは「勝ち」やないんか?
私の癖? 自分がダメダメやと思い込むこと。披露
すること。
何を基準に私は自分を「ダメダメちゃん」と思っているんかな? と振り返りました。
もし、誰かが「お前はダメな人間だ!」と言ってきたとして完璧じゃかいから人生の中で成長していく…。
お坊さん方が教えてくださるんは、そういうこと…。
わたし、アホやからうまく言葉にできなかった…。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
勝ち負けにこだわらない心を得ることが価値(勝ち)。
私に勝ち負けはありません。
勝ち負けは人が勝手に立てた基準を元にその人の頭の中で図式を作って一喜一憂しているだけです。要らないことではないでしょうか。
病気になったからと言って何が「負け」なのでしょうか。
それを治してくださる医師や看護師さんにも失礼なことです。
勝とうとしないこと。
勝たなくていい。
勝ちも負けもない。
ある種の人間には優位に立ちたい気持ちがあるのでしょう。
安全地帯を保ちたいような気持ち。
仏教では、そういう小さな損得勘定を蹴飛ばして、もっと意識の高い心になるように勧めます。
降伏一切大魔最勝成就。
最も勝れる心とは自分の優劣や勝敗を調伏した心です。
それを成就するには、人間の思考マインドを離れて事実実相を生きることです。
事実実相を生きるには瞑想・坐禅が最も近道です。
実相をみればどこにも勝ち負けなどないということが本当にわかります。
般若心経にある「不生不滅 不垢不浄 不増不減 」とは、思考を離れた事実実相を生きている様子です。
基準が無ければ勝ち負けもありません。
基準というものがそもそも思考の世界です。たった今は二度とありません。対を絶した絶対の真実の今ですから、病気の時は病気というだけで、勝ち負けがありません。
たとえ身心が病気であると診断されていても、病気を忘れている時には病気という事すらないものではないでしょうか。
思考に溺れる人は勝ち負けが生じます。
仏教はきちんと仏教を学んでいかれれば思考を離れたものの眺めになります。
その方もそういう価値しか知らないという事自体が可哀想なことです。
勝ち負けなんてものが無いという事をよく学んでどこかでお逢いしたら教えてあげてください。
国境なんて無い。imagineだね。
こんばんは。前回の問いに比べて、はるかに「活きた問い」だと感じます。
丹下師のおっしゃるように、「勝ち・負け」なんて所詮、人間が自分に都合良く色づけしているだけのこと。本質的な(仏教的な)勝ち・負けはありません。
世の中に、「勝ち負け」はありますよね。例えばじゃんけんぽん。けれどこれって、「そのルールに乗っている」から「勝ち負け」がある…つまり「勝ちとはどういう状態か?」を予め決めて、両者がそれに同意しているから成り立つ物です。よく2歳位の子は「じゃんけんぽん!やったー!」って、両者が何を出しても喜んでいますが、あれは「ルールが共有されていない」例です。その子にとっては、きっと「声を合わせて一緒に動作するのが楽しい」からの「やったー!」なのですよ。両者が何を出したかなんて、どうでもいい。
ということで、病院で聞いた「何が勝ちなんか?」というのは勝ち負けのバカらしさをあばくもの。「人生に負けた」なんて、どうとでも言えることで、全く意味ありません。
それを言われて何となく頷き、負けた気になっちゃう。そもそも「ルールを決め、そこに乗っている場合に限り言える」事なのに、ルールの説明もなく同意もしてないのに、気分だけ「負けた…よよよ」になっちゃう。
つまり!
そんなルールに乗らなければいい!というのが仏教であり、「(絶対的・普遍的な)勝ち負けなんぞない」ということなのです。
あなたの起こした自問、「私は何を基準に、自分をダメだと思っているのか?」は、誠に当を得た物です。これ、素晴らしい問いなのですよ。
しかも、「何も基準はないのに、単独でダメだと思うことができる」のです人間は。さっきの「人生に負けた」みたいな。あるいは「自分に負けた」みたいな。
それが「癖」としてしみついているのです、「結論は、とにかくダメダメである」と。
さて、文字制限も近づきました。タイトルにした「国境〜」は「勝ち負け」のボーダーラインとも考えられると思って付けました。これ、何かと象徴的なのです。
「お礼」の「仏教を知ると心がラクチンになります」、誠にその通り。そして、それを貴女の生きる杖にしていくのが、日々の生活です。また。
質問者からのお礼
丹下さん
こんにちは。
基準もない。勝ち負けもない。
仏教を知ると心がラクチンになります。
二度とこない今日を精一杯に生きたいです。
23時59分まで今日。
0時になったら、また今日がはじまります。
佐藤さん
人間って厄介ですね。
基準のない中、単独でダメだと思ったり、誰かの一言に一喜一憂したり。
だからこそ、人間は面白いのかもしれませんが。悩んで、もがいて時に笑って。
仏教をね、もっと知りたい。
目の前の霧がはれたら、思いもよらない美しい世界がみえるかもしれません。
こんばんは。
今日で、この問いが締め切りのご連絡をいただきました。
おかげさまで、元気にしています。
最近、お寺さん巡りをしています。
天気が良くて、木々の葉っぱが陽にあたって緑がきれいで、ウグイスの鳴き声、時々ふく風を感じたり、お参りみえてる方と話をしたり。
全ては当たり前ではなく、お参りをする際に、「このお寺さんまで来させていただけて、ありがい」「生かさせていただけて、ありがい」そう思うようになりました。
とはいえ、今後もいろいろな事に悩んだりすると思います。
だけど、生きていきます。
這いつくばってでも、しがみついてでも、みっともなくても生きていきます。
このhasunohaのお坊さん方が大好きです。
感謝しています。
お坊さんでいてくださって、有難うございます。
これからも見ていてください。
よろしくお願い致します。