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同僚が嫌いすぎて辛い

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厳しいアドバイスよろしくお願いします。

今の職場で嫌いな同僚がいます。
毎日お昼を一緒に過ごすのですが、その40分ぐらいの時間が毎日苦痛でたまりません。

毎日通勤中からお昼に話す話題のことばかり考えています。

できるだけ嫌いにならないように、彼女と楽しく過ごせるように自分なりに努力してきましたが、それすらも一体自分は何を頑張っているんだろうかとバカバカしくなります。
職場はいいところなので、これからも長く働きたいのですが、彼女の存在がほんとうに疎ましく辛いです。
お昼休みの40分を毎日クリアすることがほんとうに辛くて、早く辞めてほしいと毎日願っています。

今さらお昼を別に食べようというのも、難しいですし、何よりそんな自分が大人げないというか情けないというか、なんともやりきれない気持ちになります。
彼女の悪口を毎日聞いて、思ってもいない悪口を自分も言わなければいけない、そうでないとあからさまに機嫌が悪くなるので、わたし自身がどんどん引っ張られて、いやな人間になっていく気がします。
当たり障りのない会話に無理やりもっていってみたら、そういう話題は興味がないとか、そんな話が一番嫌いだとか言われる始末です。

とにかく、嫌いで嫌いでたまらないけど、無視もできないし、半年がんばってもう限界にきています。

保育所に通う子供の子育て中で、フルタイムで働いていて、同僚の気に入る話題探しなんかしている精神的余裕なんてないのに、なにを悩んでいるのか、自分でもほんとうにバカらしいです。

こんな相手とどう対峙していけばよいのでしょうか?
ほんとうの意味で仲良くなれたらと思うのですが、可能でしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

3つご提案します。
①嫌いを「肯定」しましょう。
「あー、うぜー。あー、ムカツクぅ。」と言いましょう。
ただし
「あー、うぜー。あー、ムカツクぅ。(-_-メ)」ではなく、
「あー、うぜー。あー、ムカツクぅ。(^<^)」です。明るく嫌う。
嫌いな奴は嫌いでいいのです。
好きになれない人は好きにならなくていい。
誰がイスラム国のようなド悪党を好きになれるものでしょうか。
ただし、そこに「私」を入れてはいけない。
敵対心を持ってはいけない。「そういう」奴なだけです。
「そういう」特殊な生物なだけで、スズメバチや毒蛇が嫌いであっても理解だけは示すことです。
私的感情が強いからあなたは苦しい。
嫌ってはいけないような気持がある。
さらに
負けたくない気持ちもあるのでしょう。
だから、より一層それを認められないからダブル反発感情になる。
よって「嫌い」を肯定するだけにするのです。
②心理的距離を持ちましょう。
あなたの中の「アナタ」が近すぎるのです。
彼女に対して、そしてあなたの「ヘイト感情」に。
あとは自分で考えてください。
③【嫌いの前があることをしりましょう。】
その人と同じ空間にいることをあなたはアタマの中で図式化したり、過剰に意識したり、キライという事を過剰に認めている。
本当はその人のことは嫌いじゃないのです。
この意味は矛盾するようですが、禅においては好き嫌いは好き嫌いが生ずる前の思考以前の事実を知ることで、嫌いを超えることが出来ます。
・嫌いは思考です。
・好き嫌いの無いのは事実です。
これを300回唱えてください。意味が分かるまで。そして実際に思考と事実とが分離するまで相手をみて自分をよく省察してください。
すると「相手がいなかった」ことをあなたは悟れるはずです。
相手がいないとは、全部自分の上の心象作用に過ぎないことを知るという事であり、本当に自分の真相を明らかにするという事です。
相手を立てているというのは思考の中。距離があるのです。
本当は、その事を気にしているのも自分。
その人を嫌っているのも自分の内。
あなたが相手と思っているものは自身の幻影です。
実物のその人は、アナタとはまるで別の有り方をしています。
さらに厳しく申し上げれば、あなたは実はその人にまだ出会っていないという事なのです。
あなたはあなたの中のその人に対する自分に出会っているからです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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