回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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アナタ(自分)が苦しいだけではないでしょうか。
私が苦しい苦しい言ってた時は、今思い返しますと「全部、自分中心なものの見方」をしていたことが反省されました。
確かに相手の方が加害者で悪かったにしても、それでも私は「自分が苦しくしているだけ」と気づき、相手が悪かろうが相手を責めず、苦しい苦しいと被害者意識にも支配されないようにつとめ、苦しみというものの正体を見抜きました。
結局、自分越しのものの眺めでしかありませんでした。
確かに納得いかないこともありましょう。
なんで自分ばかり、どうして、今日も洗いもの洗濯…、どうしても報われない…、どうして私ばっかり…
今日、私と一緒に皿洗いを勤めてみませんか。
私は手伝えませんが、私はワイフに代わってずっと洗い物をしています。
疲れて帰ってきた時も、ジャブジャブ。
今日はやりたくない、そんな時もジャブジャブ。
ひたすら洗う事アライグマラスカルの如し。妻からは「タスカル」と呼ばれています。
仕事にしても夫婦関係にしても親子関係にしても、トイレ掃除、風呂掃除、洗濯…、何にしても、そこに私を交えないでやってみる。
その癖をつけちゃうことです。
私が皿を洗う時。
ただ、手を動かすのみで、心が動きません。言葉もありません。
ひたすらに洗うのです。
その時の私の心は他の何ものともコンセントしていません。
ただ、目の前の皿洗いだけを配線しています。
たこ足配線の様にアレもこれもとなりますと必ずショートします。
あー、やってらんねー、となります。
ただ、黙々とやるべきをやる。ただし、一人で。独りで。無条件です。
すると、冒頭のタイトル、冷たく感じたでしょうが、本当はそうじゃなかったんだ、とお分かりいただけるはずです。
ああ、本当に「わたしのなかの私(自分を中心としたものの見方・我見)が私を苦しめていた
だけだ!」と気づける時が来ると思います。
私の中の私意識が過剰に暴走すると、何をするにしても不平不満・愚痴がでる。
私の中のワタクシ意識が静かににあると、何をされても赦せるようになれるのです。
許すのは「私」がやること。赦すのは「私の中からワタクシが無くなった私=仏」がやることだからです。
その仏に出会えば、あなたは不平不満も、苦しみも無くなります。
もう少し深く追求してきて下さい。
全ては因縁(原因と条件)次第
HANA様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
悪いことが悪いかどうかは、まだ結論を出さずに、とにかく事態が好転するように、思うような良い結果へと向けて、良い因縁(原因と条件)を調えていくことが大切なことになります。
「人間万事塞翁が馬」、「禍福は糾える縄の如し」と申しますように、一見、悪いと思えることでも、ある時になれば良いことだったと思えることもあり得ます。自分から見れば悪いことでも、他人から見れば、良いことであったり、チャンスであったりと思えるようなことだってあります。
全ては因縁(原因と条件)次第によるところであり、「これ」と決められてしまえるような実体は実はあり得ないのでもあります。
もちろん、貴女様において、悪いと思われていること、つらい、苦しいと思われていることは事実であって、あり得ていることですが、それをあまりに実体視して、そこに固執してしまってはいけません。因縁次第では変わっていき良くなる、楽しくなることもあり得ることでもある、と思っておいて頂けましたら少しは気も楽になり、良い因縁へと向けて取り組めるのではないだろうかと存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
ありがとうございます。
どうしても考えがネガティブになってしまい、
辛くて辛くてHasunohaに相談メールを送ってしまいます。
固執した考えをせず、前向きに考えられるようにしたいです。
ありがとうございます。
無になりたいです。
何も考えず、ただやるべき事をやる。
そうできるようになりたいです。