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また怒ってしまった…

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子供のことで聞いていただきたいことがあります。
上の子が5才で、下の子がまだ1歳前の子です。

下の子は後追いがひどくて、ママが見えないとすぐ泣きます。なので私は下の子とべったり状態になってしまいます。(ママ以外ダメで…)
上の子がまだまだママに甘えたい気持ちはわかってあげてるつもりですが…つい何かあると上の子を怒ってしまいます。
その度に…寝顔を見るたび毎日反省の日々です。

親バカと言われるかもしれませんが、本当に素直で優しいとても良い子に育ってくれているなと思っているし、よく“お姉ちゃん”をやってくれているのですが…
下の子が産まれてから『頭が痛い』、『吐きそう』…ってよく言うようになりました。熱もない、食欲もちゃんとある…小児科に連れて行ったら、『どこも体は問題ないから精神的なものかな?』と…
あまり怒らないように…
上の子といる時間も作ってあげる…
でも、やっぱり怒ってしまうことが毎日で…反省して、また同じことの繰り返しです。
毎日、『オモチャ片して』『お風呂早く入って』『早く寝て』…など

それから、『ママ、○○のこと嫌いなの?』『ママ、にっこりして』って言われて…もうショックで…
『ママは○○のこと大好きだよ』って言ってるけど毎日のように『○○のこと好き?』って聞いてくるのはやっぱり私が上の子を後回しにしちゃってるのかな?って思います。

子供たちはこんなママで幸せなのかな?
他のママと比べちゃうと全然ダメダメママで申し訳ないと思ってしまいます。

今日は私がちょっと目を離した隙に下の子がイスから落ちそうになってしまったらしく、大泣きしていた下の子を見て(じぃちゃんが居たのでじぃちゃんが抱っこしてました)、『何したの?』って上の子に言ってしまいました…怒り口調で…ついちょっかい出して下の子を泣かせてしまっていることが多々あったので…
後から聞いたら上の子は何もしてなくて、下の子が立って上手く立てずに落ちそうになった。ということだったのに…
上の子には『勘違いして怒ってごめんね』と伝えましたが…

もう本当にダメな母親です。

ちょっとのことで怒らなくなるようになりたいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

富士山五合目ビジョン

いつも怒るところが富士山の3合目であるとします。
5合目までは様子を見ようと思うことです。
事の成り行きを見届ける。
それが念頭にあるだけでも三号目で爆発しません。
七合目まで見守れるようになるとよいでしょう。
簡単に申し上げればあなたはあなたを介入させすぎていると感じます。
そこに審査員がいなくても、子供たちだけで楽園が作られているのです。
口うるさい介入がお子さんの笑顔を奪っていることに気づけば5合目までは見届けることが出来るでしょう。
今日実践してみてください。
三回見過ごすことができたら、返信を下さい。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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