hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

自分のルール

回答数回答 2
有り難し有り難し 20

自分のルール、自分の考えかたを変えるにはどのようにしたらいいのかわかりません。

自分のルールを変えれたら毎日のイライラや
半強制的にさせられてる事を嫌と思わずできるかもしれない。

半強制的にさせられていることを、しないでいることに対しての後ろめたさを感じ、隠れるように生活することに疲れでいます。

どうか自分のルールを変える考えかたのアドバイスをください。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ルールはみんなで決める

みゆし様こんにちは、2度目のご縁をいただきました。

私が前回お話をお聞かせいただいた時は「見守る」とおっしゃっていましたが、やはりそんなに簡単にはいかなかったようですね…

それだけ「仏壇に手を合わせる」という行為が「どうでもいいこと」ではないのでしょう。
宗教・宗教行為というものが人にとって「大きな意味をもつもの」だということなのだと思います。そこに理解・納得がないと受け入れられないのではないでしょうか。

ここは一つ多いに宗教を語るという意味で、ご主人や義両親に「なんで手を合わせているの?」「何に手を合わせているの?」と問いかけて、あらためてそれぞれで確かめ合うということもよいかもしれません。
その中で、「今の形にこだわる必要がない」という結論が導き出されることもあるかもしれません。

もう一つの面から考えると、今回おっしゃられる「ルール」というものです。

みゆし様は「自分が悪い」、「自分がルールにこだわっているから悪い」とご自分を責めているかもしれませんが、今の現状は「ご主人のルール」あるいは「ご主人のご実家のルール」をみゆし様やそのご家族が強制されているとも考えられます。

この場合、一人一人が自分のルールを変えて全体のルールに従うのでなく、全体のルールをみんなで考えるということがないと、みゆし様のように誰かが納得いかずに苦しむということがこれから先もあるかもしれません。
ルールは全員の同意のもとで制定されるのが理想でしょう。しかしながら現在は暫定的にこれまでのルールが施行されている状態ですので、それに逆らうような形にみゆし様がなっていることに後ろめたさをお感じなのでしょう。
それであれば今なすべき事はささやかな反抗でも、逃げ隠れすることでもなく、「ルール制定または改正のための総会」なのではないでしょうか。

簡単に言うと「きちんと話し合う」、これに尽きるわけです。みゆし様が自分のルールを変えて我慢すればよいという些細な事ではないと私は思います。

どうか無理なさらずに。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

見込み、見当違い

拝読させていただきました。

パソコン仕事をしていると、画面をずっとみてることになります。近くばかりをずーっとみていると疲れますし、目によくないです。定期的に遠くを見たりして目を休めてくださいと、お医者さんなどは言います。

これは心にも同じことが言えると思います。
自分が悩んでいて苦しいと「苦しい自分」に意識が集中します。どうにかしてこの苦しい思いから解放されたと思います。そして苦しい思いから自分を解放してくれる考え方が「なんとなくあっちの方にあるなぁ」と無意識的に「見込み」「見当」をつけてしまいます。

近くばかりを見るということは、近くに集中するということです。それはつまりそれ以外は「無視」しているんです。近くに集中するために。それは仕方のないことではありますが、遠くから呼ばれたり横から手を振られても気づけません。大事なのは「近く」だと思っているから。

…自分を救ってくれるのは「考え方」ではないと思うんです。私を苦しめてるのも「考え方」ですから。「私=考え」でしょうか?

私が「見当」さえつけなければ、すでにいろんなところから支えを受けています。空気や重力、呼吸や心臓の働き体の働き。命の働き。

それらを今まで無視してたなぁ、と気づくと徐々にいろいろと変化してくると思いますよ。見当をつけずに見守ってみては…。合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

若輩者ですが、宜しくお願い致します。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ