虚栄心から解放されて、自由に書くことを楽しみたい
質問失礼します。
私は、詳しくは書けないのですが、人を楽しませる形で小説を書くことを副業としているものです。
今回は、その小説を書くことで悩みがあり、相談させて頂きました。
その副業を始めたばかりの頃はただ文章を書くことが楽しくて、お客様が自分に書いて欲しいと声をかけてくれることが嬉しかったのです。
ですが、順位が上がり人気が出て、賞を得てから、自分の中で書くということに対する気持ちが変わってきてしまいました。
話を書く時にどんな話が人気があるだろうとか、いまどういう順位だろうとか、他者とどちらが上か比較したり新しく参入してきた実力ある人に嫉妬したりだとか、そんなくだらないとわかっていながらも、そんな評価に振り回される自分がいて、それが辛いです。
こんな気持ちで物語が書きたいんじゃない。
もっと素直に、書くことが楽しかった時に、ささやかなことが嬉しかった時に戻りたいと思いながら、こんな虚栄心でいっぱいの自分にただただどうしていいかわからないのです。
もう辞めた方がいいのではと思うこともありましたが、今関わっているものはあと2年は続くものなので、途中で投げ出したくないと思っています。
自分の書くものは何も変わってはいないのに、他者から評価が与えられるだけで、何故こんなにもその形ない物に悩むのでしょうか。
この苦しみを少しでも断ち切るために、少しでもお話をお聞かせください。
お願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
評価は後から付いてくるもの
人の目が気になるようになると、苦しみが増えます。こう思われたい、こんな風に思われたくない。
そうした思いが先にたつと、「かっこつけた嘘の自分」が登場します。嘘の自分でいるのって辛くないですか。
評価というものは、書く前には全くついてはいですよね。書き終わって一定の評価があるのかもしれませんが、その時にはもう書き終わっていて、もしかすると次の作品を書いているのかもしれません。要するに現実を見るのです。未来を心配しているのではなく、今の様子で只只書く。評価はそのあと、まだ来ぬ未来を心配するということは、その場から一歩も動けなくなり立ち止まることになります。
今を生きてください。
言葉が紡げたことを
いや、ドキッとしました。このページにも、Facebookで共有とか、「有り難し」というボタンまであって、坊さんのマイページには、「有り難し」の累計まで表示されるのです。
私も、この数字に振り回されているなぁと。で、見ていると、100以上の答えをされている方もあり、100以上の「有り難し」がついている答えもある訳です。凄いなぁと、つい思います。
ただ、考えてみれば、私が書いている事も、お釈迦様やら先輩お坊さん方やら、もちろん両親とか家族とか友達とか、色んな人達からネタを貰ったりヒントをもらったり、それを自分なりの表現にしているだけなので、つまり自分のオリジナルは、ほんのチョットだと。どこからもヒントを得ずに書いたもの、喋ったものなどないなと。
だとすれば、せめて自分なりにまとめられたとか、一人でも私の答えを目にして下さった方があれば上々なのかなと。「内容を確認する」、そして答えを投稿する時には、少なくとも自分は自分を評価している訳で、誰よりもそれは価値のあるものではないかと思うのです。
「副業」というのが、「売れなくてはならない」という事なのかは分かりませんが、「売れるかな、他人にウケるかな」が、書いている時に出てきたら、「あー私って、売れたいと思ってるんだなぁ」と自分をみて、深追いせずに自分を味わってみたら如何ですか。追うのは我慢する。じっと待っていると、登場人物たちがモゾモゾ動き出すのではないかな、それを待つのがいいのではないかな、と思います。
他が為に説くにはあらず
「布教教化というは他が為に説くに非ず。自らが自らを行ずるのみなり。」と禅の世界では言われます。
人のためにやるんじゃないんですね。
自分が自分の納得のいくことをするだけ。
お釈迦さまだって自分が救われたことをそのまま説いた。
それが結果的に相手を救うこととなったのです。
私も、自分の経験を語っているだけです。
それが分かる人には届く。響かない人にはまるで響かない。
むしろもっとお坊さんポク書いた方があり難しが増えることも承知しています。
それじゃぁツマランので、私には私独自のやり方で説いているだけです。
子供ウケする日曜のアニメは永遠不滅です。
キャラクターだけ変わって子供の欲しい所をちゃんと満たしています。
観音様も千手観音様も無限の変化をして、相手に届くように形を変えて救っています。
これは分かりやすく言えば「無我」だから自在に説けるのです。
お笑い芸人が自分のキャラ一つに固執すればそこからの脱却がありません。
道の世界でも守破離と言われますように、守って、破って、自由自在な働きが出てくるのです。
それでも、人が好むものと、自分がやりたいこととはずれがあるはずです。
あなたの話が人気が出たのはあるポイントがあるはずです。
読者の期待に応えてそのポイントを外さない事も大切でしょうし、一番大切なのは、自分がやっていて楽しいかどうかです。自分が楽しければ必ず誰かにそこが通じると思います。
禅においては、自分が救われない教えは誰も救われない、と言います。
自分が自分の自己満足のための法話は誰も救われないものです。
質問者からのお礼
円通寺 邦元様
ご回答頂きましてありがとうございます。
そうなんです、仰る通り「かっこつけた嘘の自分」がいて、けして自分がかっこよくないことも知っていて。
未来を心配しているのではなく、今の様子で只只書く。
今を生きてください。という言葉。
とても胸に染みました。
確かにそういうことをやたら気にしているときは、今が死んじゃってるなと、振り返ってみればそう思います。
きちんと今を歩んでいきたいと思います。
改めて本当に、言葉を頂きましてありがとうございました。
光圓寺 佐藤良文様
ご回答、本当にありがとうございます。
こちらも、あ、と佐藤様の書いてくださった回答を見て思うことがありました。
自分も色んな人や素晴らしい作品から影響や、ヒントや、そんなものを得ているなと思いました。
本当のオリジナルなんて少ししかなくて、そう考えると今の自分があるのは、そういった様々な自分にヒントをくれたもののおかげだなと。
いつも深追いしてどんどん嵌ってしまうので、そんな時は佐藤様の言葉を思い出して、自分を味わってみたいと思います。
きっとそれは今みたいな時に限らず、色々な場面で今後自分を助けてくれるのでは…そう思ってます。
お話し下さいまして、ありがとうございました。
頂いた言葉、大切にしていきたいと思います。
安穏寺 (天岑寺) 丹下 覚元様
ご回答を頂き、ありがとうございます。
考えさせられること、沢山ありました。
「無我」だから自在に説ける…固執があればそうはいかない。
だけどふとした瞬間に、固執というものが顔を覗かせるような…
難しいことだなと思います。でも同時に、そうなんだなととても納得させられています。
自分がやっていて楽しいかどうかも大切にして、ポイントや色々なことも大切にしながらやっていきたいと思います。
心が楽になりました。
説いてくださったこと、忘れずに精進していきたいと思います。
ありがとうございました。