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私は取り憑かれたのでしょうか

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先日、月に1度だけ通る私の職場少し近くの踏切で人身事故がありました。
事故現場は、見える距離ではありません。私にとっては身近で起きるのは初めてのことでした。
命に関わることですし、面白がったつもりではなく、同僚に話の話題として事故があったことを伝えました。すると、その同僚は少し霊感が強かったり、以前に鬱を克服しているということもあり、「こんな明るい時間に自害したということは、相当な思いが強い。事故現場を遠巻きからでも見たり、話題にすると落ち込みやすい人は取り憑かれる可能性があるから止めた方がいい。」と、気にしすぎたり落ち込みやすい私に教えてくれました。もちろん、非科学的なことなのは百も承知です。
しかし私自身、自害した家族がいるため他人事ではなく、どうしても気になってしまいました。
なので後日、事故現場の近くを通ることがあったので、ご冥福をお祈りするつもりで合掌をしました。果たしてこれが正しかったのか・・・

全く無関係ですが、その日の夕方、車で軽度ではありますが接触事故をしてしまいました。こちらも防げなかった責任はありますが、相手負担で修理することになりました。その翌日、家族の車に乗っていたのですが、塀に車をぶつけてしまいました。もちろん運転手の不注意ではありますが、私が助手席に乗っていて話しかけた事もあり、責任を感じております。2日連続ということもあり、何か私に原因があるのではないか気になり、関連性はないのかもしれませんが、近頃の気になることを述べさせて頂きました。
ご意見、お聞かせ願えませんでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

霊魂は存在ではなく"機能"する。

心の中で50%以上その事が占めるという事を【憑りついた・憑りつかれた】というのです。
別に外に霊があるとかのはなしではありません。
私は若い頃、キライな人がいてその人がどうにかならんものかと考え事をしていたら枝が目に刺さって角膜を損傷しました。それ以来朝の光が目に染みるのです。
怒りの恐ろしさを学びました。
これこそ生きた人間、生霊というものです。
本当の霊とは、そういうことを言うのではないでしょうか?
おわかりになられますでしょうか。
あなたが生きている人でありながらも、亡き人のことを考えておられる中でどうしても心に処理がつかなかった。そういう意味では霊魂はこの世にはきちんと作用として肉眼にこそは見えなくても精神面において作用・影響力というかたちで存在(機能)するのです。
あなたもそのトリツキの恐ろしさを学びました。
自分がその事を過剰に関連付けして心配すると、運転という生命にかかわる仕事をしている時でさえもその事を思い起こして、不注意になるのです。
関連性があるというのは「そこ」です。
あなたが関連付けて、我がことと為して、その事を過剰に考え込んでしまったというわけです。
今後は、もう、その事は忘れてあまり悪く考えないようにすることです。
霊、霊魂とは、あなたの中のその人に対する心象作用として捉えてください。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

こんにちは。

 身の回りでいろいろなことが起こり不安ですね。

 まあ偶然でしょう。悪い事が重なると、人間の脳は、非科学的な理由であってもそれを原因としたくなるようにできているようです。仏教では因果を説きますが、そのような不思議な因果には否定的です。
 近くで起きた人身事故と、あなたの身に起きた事故は全くの無関係です。

 事故現場で故人を想い手を合わせた事は尊い行為だと思います。

 あまりお気になさらぬよう。

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

質問者からのお礼

私の気にしすぎのようですね。
ご回答ありがとうございました。

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