嫌われることを恐れる。友人を信用できない。
いつもお世話になっております。
この度も投稿失礼致します。
タイトル通り、私は対人の不安が酷く人を信じきることができません。それもある程度見知った仲の人や友人に対してです。
「この人だって何かあったら私から離れていくんじゃないか」「私を簡単に嫌うのではないか」という疑いを誰にでも抱いてしまいます。
こうなってしまった原因は一応判っています。
小学生の頃にクラスのとあるグループから突然やんわりと避けられたことがありました。喧嘩した覚えは無いし何か酷いことを言ったわけでもないので、単に気まぐれだったか私のことが肌に合わなかったのかなと思います。
ですが、この「理由もわからず避けられた」ことが未だに心にこびりついて離れません。グループの人達の顔も名前も忘れてしまっているのにずっと引きずっています。
元々は人と話すことが好きで誰にでも関わっていきたい性格だったので、余計にショックだったのかな…と思います。
そして「人(主に知人・友人)から自分がどう見えているのか」を極度に気にするようになりました。
初対面の人相手なら自分の印象をどんな風にでも与えられるしまだまっさらな関係性なので、わりと前向きに関わっていけます。
ですがお互いのことを知るようになると、冒頭にも書いた疑いが出てきます。そして築いた関係性が壊れることを恐れ、「相手を不快にさせないか・幻滅されないか」「自分の印象が悪くならないか」といった不安を常に感じてしまいます。
これのせいで思ったことを素直に言えないことも多いです。
もっとさっぱりと人付き合いをしたいのに、これらの考えを吹っ切ることができません。
乱筆で見苦しい文章ですみませんが、アドバイス等いただけたら幸いです。
宜しくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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違うかも、という前提で
それは良いことに気づかれた、と思いますよ。つまり、「自分では気づかない何かが、人を不快にさせるかも知れない」ということですね。
恐らく、その小学生の時は、「何があったの?私たち、友達じゃないの?ココが嫌、というのがあったら教えてよ」を言えなかったから辛いのだろうと思います。
人の意見は異なって当たり前。「私はこう思うんだけど、違うと思ったら言ってね」を最初に宣言しては如何でしょうか。もちろん相手が同意するかは分かりません。けど、相手と違っていても、それ即ち「私が間違っている」と思う必要もありません。悪いなと思ったら変えればいいし、嫌だと思ったら「私、それは嫌よ」を伝えればいい。何もかも「お揃」じゃなければやっていけない、その意識は不要です。違いがある。けれどその事を知っていれば、ビクビクする必要はないと思いますよ。今か将来か、お付き合いする事になったとしても、それは同じ。違った思いをしつつ、友達でいることはかのうですよ。