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考える癖を変えたい

回答数回答 1
有り難し有り難し 11

 こんにちわ。こちらのサイトに質問させていただいて、アドバイスの点に留意していますが、
 物事をマイナスに考える癖と他人のナイショ話などを直ぐに自分に関連付け考えてしまい、そのたびに落ち着かなくなり、不安な気持ちと他人を信じられない気持ちになってしまいます。
 これをあらためるいい知恵をお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

わたくしナイズしない。

自分の土俵に取り込まない。
その通りに聞く。
自分の事だと思わない。
悪く言われたにせよ、泣きっ面にハチ的なダブル攻撃を加えない。
自分がそこに意識を注ぎ過ぎない。
ギョーザのラー油を入れすぎない。

川歳の少年殺害事件から、こんにちまで続く痛ましい少年少女殺害事件。
気持ちを注ぎ過ぎれば、まさしく我が事となりノイローゼになった女性すらいます。
冷静に観れば痛ましいことではありますが、他が事なのです。我が事ではありません。
厳密には我が身の上に情報として起こっていることですから我が事なのですが、それでも、取り込み過ぎれば、本当は他が事なのに、我が事になってしまうのが、人間が五感、六感を有していて、作用として自分の身の上に起こってしまうからです。
映画「パッション」でショック死した修道女の方がおられます。
可哀想ですね。
本当に我が事になってしまったのです。
分かりやすく言えば、上手な距離感を持つことです。

目の前に暴走運転の車がいる。
並行して走ったり、近づけば、害がその身に及ぶ。
自分の中から出てきたネガティブな思いにしても、人から悪しざまに言われたにせよ、ひきよせすぎない、首を突っ込み過ぎない、意識を注ぎ過ぎないことです。(^<^)

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

 丹下覚元師アドバイスありがとうございます。今日も良きアドバイスに感謝です。

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