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神仏の存在を意識して生きる

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有り難し有り難し 17

 こんばんわ。信仰を持つ大切さについて
教えてください。我が家は私がクリスチャン、妻、子供はとくに信仰はありません。
 子供が小さい頃は教会にいっていましたがいまは行けていません。
 でも、手を合わせる習慣や神仏の存在を意識することはいきる上で大事と思います。
 何かに守られていると感謝していきれるって素敵ですよね。
 どなかた教えてください。私もこのサイトへの相談以来、守られていると強く感じています。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

3次元までしか目にみえない

初めまして、日蓮宗の赤澤と申します。

こまさんのおっしゃるように神仏の存在を意識して生きることはとても大切なことです。

神仏はいるのか、いないのか?答えはもちろん「いる」です。
しかし何故、目に見えないのでしょうか。

それは私たちの肉眼が、縦、横、高さの立方体までの情報しかキャッチできないからです。これに時間を加えた4次元までしか、人間はその情報をとらえることができません。

しかしこの世の中の現象世界は10次元までその存在が認められております。
人間にはとらえることのできない、次元、力の働きを「神仏」と申します。

この世の不可思議を浅はかな人間の世界観だけで何でも解決しようとしると、宇宙の法則、自然の摂理が壊れます。
「姿、形がみえなくても心を尽くす」ことが大切であり、この部分を宗教と申します。

合理的にものごとを進めると、心が伴わなく崩れていく理論と似てます。

強要が致しませんが、宗教の感動をご家族が分かってくださるとうれしいですね。

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有り難し
おきもち

サラリーマン家庭で育った私が作った小さなお寺。目指すは「アットホームテンプル」です。 無印良品のような本堂には季節のお花を挿し色に。礼拝と法話を大切にしております。

感恩サマ 関わり合いという温かさを感じる

わたしは家内がクリスチャン系で家がお寺ですので仏教徒と思われていますが、宗祖の道元禅師という方は「曹洞宗とも禅宗ともいうな」とお示しなので、ただの人間です。
境内には八百万の神様がいて、金毘羅神社がありまして、トイレにはウスサマ明王が祀られていて、玄関には大黒様、庫裏には韋駄天さま、クリスマスにはケンタを頂いたり、今日はカレーを頂いて数十種類のスパイスに守られて体が温かく、今は夕方に眠ってしまったので起きて、夜泣きそばを頂き、7味唐辛子とかつおだし、こんぶだし、お湯、沢山のおいのちさまに守られて、外には沢山の大自然に見守られて、こうして質問者さんと関わり合っていますから、ありがたいものです。
何を申し上げたいのかというと、質問者様も、何も宗教らしいことばかりではなく、沢山の命や物質、文明のリキ、ネット環境、情報、それらの全てがひとえに、「あなた様一人のために」廻らされている事を自覚なされてみてください。
沢山の恩恵を感じ取ることこそ幸せへの道です。
親鸞聖人も「ひとえに親鸞ただ一人が為なり」と大変深い宗教心を説いておられますように、水も空気も太陽も、みな、この自分の命を支えてくださっているのだ、という大いなる自覚に目覚められたとき、あなたは一人ではないと悟り、無限の感謝の心が芽生えることでありましょう。
決して、自分一人の為だけにという意味ではありません。
多くの方によって存在しているのだ、関わり合っているのだという自覚が、安心感、感謝の心、謙虚さ、暖かい気持ちを生み出してくれるのです。
北海道と埼玉では大変な距離ですが、こうして、それぞれが関わり合っていけるのですから、和の心というものは素晴らしいものですね(^。^) 合掌。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

 一妙寺貞慎師ありがとうございます。感謝いたします。
 私もここでの出会い、助言を頼みに頑張っていきます。

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