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気分を晴れやかになりたい

回答数回答 2
有り難し有り難し 12

 お坊様こんにちわ。私の話を聞いてください。私は毎日漠然とした不安の中生きています。なぜそうなのかわかりません。
 まず、仕事にすごくストレスを感じていること。仕事に追われること、評価の面での不安感。対人関係に対する不安から、人を信用できず、打ち解けて話たりできないこと。両親に気を遣うことが多く、楽しめない。昔の飲酒による説教、両親の不仲の
ことが今も忘れられない。などです。
 以前、精神的に参ってしまった経験もあり、今の状況から逃れることはダメだとも
思っていますが、なかなか気分が明るくなりません。
 こちらへの相談で気分が多少変わりつつありますが、もう少し、私の話を聞いてもらいたい気持ちです。
 気分を変えて新しくなりたいです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

大丈夫です。

こんにちは。だいぶ沢山のご相談を頂き、私たちも色々と声を聞かせて下さって、ありがとうございます。
さて、あなたのされた質問に対して、何倍もの分量でお答えがされておりますが、「気分が少し上向いてきた」程度であるのは何故でしょうか?
失礼ながら私が見るところ、「行動に移していない」からではないかと感じています。あれだけ回答があっても、あたかも図書館へ行って背表紙を眺めているだけのよう状態なのではないでしょうか?あるいは、沢山料理を作ってもらったけれど、それを眺めているだけ。
「もっと美味しそうな料理はありませんか?」とお聞きになるのも結構ですが、どれか手を伸ばし、口に運んでみては如何でしょうか?
あなたが「気分爽快になりたい」としたら、言葉のやり取りよりも身体で経験することの方が良い道だと思います。キーボードを叩くという行動ではなく。
そうそう、タイトルにした「大丈夫」という言葉は、「人が沢山ついている状態を指すのだから、一人じゃないんだから」という意味だと聞いたことがあります。ただのコジツケではあると思いますが、悪くないな、と思います。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

(^<^)ぶっちゃけ本当に変わりたいって、思ってないっしょ?

「変わりて―」って言ってるうちはかわりゃせんのですよ。
本当に変わろうと思った人は、とっくに奮起している。
(あー、また本部の人に厳しいって怒られる)
「私は変わろうと思っている。」
その努力は素晴らし、です。
その行い方だけが、もう少し、です。
私は変わりたいと口では言っているが、
「変わろうと実際に具体的に努力がおこなわれているだろうか」をみるべきなのです。
あ、怒ってませんから、大丈夫です。('ω')キレてないっすよ。(笑)
心の動かし方が、ずーっと思考のペダルをこいでいる状態なのです。
考えるから自責が起こる。
ネガティブな事がはじまる。
それ、やめなきゃ、ではないでしょうか。
そうすると変われる、のです。
脳が変わる。
考えていくことが変わる。
自分を苦しめないことを選択する。
変わるために、今までのことの繰り返しをやってちゃだめナンダ、と気づくから変わる。
必死になる。
だから、思うことをやめ、口でいうことをやめ、日頃のネガティブ・ゾーンに突入する一歩手前で、そのあり方にブレーキをかける。
いいですか?ここ大事です。
本当にあなたが変われる一番大事なことです。
「❝変わろうと思っています❞と言いながら、変わらない、変えていかない、のは、変わりたいと思ってはいるけれども、でも、お坊さんから言われたことを採用するのは嫌だ、ということを選択してやっている」姿(グサリ)です。
なぜならば、かれこれ、回答が提言されているのにあなたが実行をしない、されていかない、のだから、そういうことになりますでしょう?あ、怒ってないっスよ?(^<^)
自分に向き合う、自分を変えるということは、そういう惰性の習慣性を止める。
選択すべきを、本当に変えるための事を選択する。
それだけなのです。
さて、今からネガティブな思いが出てきたらどうしますか?
そっちに惰性で選択させないように導くのですよ。
これを読んで、そうだなぁ!と選択することもあなた次第。
けっ、何言ってやがると、スルーして変わっていかないのもあなたの選択。
私は、あなたの選択で、あなたが変わっていくことを知っています。
あなたの選択で、あなたが変わっていかないことも分かっています。
これは厳しさではなく、愛情です。
変わるための方法論を提供させていただきました。
あとはあなたの選択で一秒後から変われます。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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