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毎日不安で寂しい

回答数回答 2
有り難し有り難し 20

子供が大学生になり下宿をするため家を出ていきました。

最初は自由でいいなと思っていましたが、母親としての役割が一段落し、いきなり一人ぼっちになってしまったようで毎日寂しくて朝になると涙が出てきます
生きがいがなくなり明日死んでもいいや、
そんな気持ちになることがしばしばです。
そのくせ、相反する感情が湧き上がります。体が弱いので病気がひどくなってしまうのではないか
動けなくなったらどうしよう。
そういう気持ちが沸き上がってきて苦しいです。

また、なぜか50代に入ってから友達との付き合いも薄くなってしまいました。
楽しみがないのです。
これからどうしていったらいいのか

寂しくて毎日死にたくなってしまいます。

簡単でも構いません。ご助言頂ければ有難いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

習い事など始められたらどうでしょう

人は、生まれながらにして一人です。ずっと死ぬまで一人です。しかし、寂しいことはありません。
現実に、一人で家に居ても寂しいと感じない時間もあるでしょう。一日中寂しいなんてことはないはずです。事実は寂しくないのです。
しかし、頭で考えだすと、不安になり寂しいと感じるのです。頭で考えているだけです。事実とは違います。

人との交流がほしいのであれば、何か趣味でも始めればいいと思います。そこには同じ趣味を持つ仲間がいます。自然と会話も弾むことでしょう。

私の寺でも写経会がありますが、お年寄りの方も多く来ております。初めは見ず知らずの人の集まりでしたが何回も来ているうちに仲良くお話しできる仲間が出来上がってきているようです。とても楽しそうです。娘さんの成長を心から喜べるように、依存せず、思いに引っ張られない、生き方を身につけられるといいと思います。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

やっと自由になれた

これからはようやく自分の為に時間を使えるようになったと考えましょう。
子育てを無事終えたのですからもっと喜んでください。
(^<^)
生きていると避けれない問題がこれからも沢山あります。
仏教を学ぶお気持ちがおありでしたら、お近くのお寺のイベントに参加されると良いでしょう。
都内からですと、遠いでしょうが、当山の禅会で人生において一番大事な事、
「どんな境遇にあっても大丈夫になれる」心を学びにお越しください。
人間、それだけは心得ておく必要があると思います。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

邦元さま
お言葉ありがとうございます。
子供のことを思えば干渉しない、依存しないのが一番と頭ではわかっています。仏さまにすがりたい
いまの心境でごさいます。

邦元さま
お言葉ありがとうございます。
子供のことを思えば干渉しない、依存しないのが一番と頭ではわかっています。
仏さまにすがりたい、いまの心境でごさいます。

丹下さま

お言葉ありがとうございます

恥ずかしながら自由に振り回されているみたいです。
お寺に足を運ぶ第1歩が踏み出せればいいと思っております。教えくださり、感謝しています。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ