餓鬼について2
調べたら餓鬼には36種類あって、なかには生まれたばかりの赤ちゃんを奪ったり仏教に帰依していない人の精気を吸う餓鬼がいるそうです。だから、餓鬼って人に悪さをすることもあるのかな?と思いました。
餓鬼って人に祟るんですか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
餓鬼事経には様々な餓鬼の話が書かれています。喉が細く、口から火が出る為に飲み食いができないやせ細った餓鬼。見た目は普通の人間のような餓鬼。天女のように美しい餓鬼。美しい姿なのに生前についた嘘の為に口だけが腐っている餓鬼。生前についた嘘の為に昼間は優雅に暮らすけど夜になると毎晩殺される餓鬼(朝に生き返ります)。実に様々です。どの餓鬼も生前の行いによって相応の報いを受けています。どの餓鬼も可哀想な餓鬼達です。
しかし人を祟る様子は書いてありません。
それよりも、人に善業を積んでもらってその功徳を自分に回向して欲しいと頼みに現れてきます。それを聞いた人が例えばお坊さんに食べ物などを布施して、その餓鬼の幸になりますようにと回向します。するとその餓鬼の前に食べ物などが現れたり、餓鬼としての寿命が終わった後に天界に生まれたりしています。
もしあなたが餓鬼を見たら、その後何か見返りを求めない良い行いをして、この功徳が餓鬼の幸になりますようにと祈りましょう。
餓鬼とは見えない世界に棲むものたちですが、、
餓鬼がいるかいないかということに明確にお答えできるひとはまずいないかと思いますね。ほらこれが餓鬼です、と示すことができるひとはいません。しかしお寺では施餓鬼供養などということをします。真言宗の本山の修行道場などには、餓鬼にご飯を施す小さな低い台もあって、高さは50数センチぐらいでしょうか、餓鬼の背丈がそれほどの高さなのだそうです。で、修行僧が毎食事のときにほんの少しご飯をまず餓鬼にあげる為にお皿に取っておくのですが、何人もの修行僧のご飯が夕方にはお皿一杯に溜まっています。それを本堂の濡れ縁に勢揃いして庭に向かって読経し、取りよけてあったご飯を本堂前の施餓鬼のために作ってある小さな台に乗せて餓鬼に施します。餓鬼というのはとてもしゃいで恐がりでもあるというので、施餓鬼供養のときには数珠は手に持たないで袂にかくして供養します。お経が終わってご飯をあげたあとは、決して振り返ってはいけないのでさっさと隠れるように消えてあげると、餓鬼がやってきて食事をいただくのだとされています。
餓鬼は隙あらば人間にとりついたりして困らせるので、こうして心を込めて餓鬼供養をしてあげると、悪さをしない餓鬼となって逆に人間を守護してくれる存在になるそうです。こうして餓鬼を供養して味方になってもらう。こうした餓鬼と人間とが和気藹々と共存できるようになった場を共生浄土というのです。「共生浄土・ぐしょうじょうど」と言う言葉は私が大好きな佛教用語なので、私の詩集の題名にもしています。あらゆる生物と共生するだけでなく、背丈50センチほどの見えない餓鬼とも仲良く円満にやっていこうというのが密教的な面白い発想ですね。
餓鬼とは餓鬼心なり
餓鬼は世間のあちこちにいるといえるのではないでしょうか。
昔の人は現代人よりも感性がすぐれていた。
人間の心の奥底にあるのが欲得、利欲心、我が身可愛がりの心、自分のことしかない心、自己中心私的な心があることをちゃんと自身にも目を向けて見つめる力があった。
そういうエゴ、我欲の心を餓鬼、餓鬼心というのです。
餓鬼とは人間のエゴ、自分を中心としたものの見方を象徴したものです。
分かりやすく言えば、心の善玉菌に対して悪玉菌。バイキンマンですよ。
誰の心にも潜んでいる。
だから、餓鬼心を増長させれば「八日目の蝉」のように人の子供でもさらう。
「仏教に帰依していない人の精機を吸う」というのは、
◯仏教に帰依していない人→人間のエゴや欲、怒りの恐ろしさに向き合えず、自分を中心に生きている人たちのこと。自分は自分のままでいいと思っている、自己中心的で無宗教、道徳心、倫理観も持ち合わせていない人という程度の意味です。
自分の存在が周りと深くかかわっているということを知らん人は核実験もバンバンやります。イスラム国のように女性も子供でも平気で殺します。
まっとうな人間としての精気を吸われた人間は、魔道に落ちているでしょう。
つまりは人間の心の誰にでも潜伏している餓鬼心というものに向き合わず、餓鬼心をよしとしている人はみな、自己中心的な生き方をして周りを顧みない愚かな行に手を染めてしまうということです。だからこそ、そういう飢渇の心を救うために、仏の智慧と慈悲を象徴した仏法を布施しましょう、という教えがあるのです。仏飯とは仏法の象徴。
子供には生米は食べなれないからお菓子にしてあげる必要がある。
餓鬼は世間に食べ物が無ければ菌やウィルスとなって人の身体にも寄生する。
だから、キューリやナス、コメなどを自然界のあらゆる一切の生命に分け隔てなく施せよ、ということを象徴して、生米や生野菜、地域の産物を布施するのです。
それも儀式上の象徴行為であって、相手が人間であれば人間が好む形にこしらえて施しなさいと言う意味です。
木のであれば父の日。
お父さんが好むような形でお布施、プレゼントをしてあげればお父さんは喜びます。
私がよかれと思っているものであると相手は受け取ってくれない。
だから、相手の心の渇きに観世音の心で耳を傾けて聴いてあげるのが菩薩の心、仏の心です。
こんなもんでいいでしょうか?
気をつけましょう
拝読させて頂きました。餓鬼のようにひたすら貪りを露わにしている方々は沢山いらっしゃいますよね。己の我欲の為に嘘を塗り固めて沢山の方々を欺く方々が毎日見受けられます。
また己れの我欲の為に人を殺す方々も見受けます。
ですからこの世の私達の周りには人の姿をした餓鬼が沢山いますね。
そうなりたくないですね。きっといつかは己れの我欲によって自分自身も周りも食い尽くすことになりますからね。
気をつけましょうね。
こんにちは。
新しい質問ありがとうございました。これは前回の私の回答が悪かったですね。ごめんなさい。
あなたの身の回りで、「妖怪ウォッチ」的に、「これは餓鬼のしわざか?」ってできごとがあったのかなぁ、って思って「もう一回質問してください」って書きました。
どうやらそんな事はなく、素朴な疑問として考えただけのようですね。
そういう事でしたら前回の質問のお答えと同じで、「そんな事ないですよ」というのが答えとなります。
死後の世界のことは、誰にもわかりません。また「餓鬼」なる存在については、今の科学をもってしても否定的です。
仏教でも、死後の世界である「餓鬼」について比喩的・方便的に使うことがあっても、ほんとうにあるとは言っていません。詳しくは他の質問から「輪廻転生」などのキーワードで探して読んでみてください。
ないものについてお話しすることはできない、って事です。
それに「仏教に帰依していない人の精気を吸う」って、そんな事があったら仏教徒じゃあない人はみんな精気を吸われてしまいます(笑)
あまり餓鬼なるものに心を奪われぬよう。
質問者からのお礼
光禪さん
回答ありがとうございました。確かに仏教徒以外の精気を吸うってなんだそれは(笑)と思いました。餓鬼とは方便なんですね。納得できました。ありがとうございました。
一向寺さん
ありがとうございました。
聖章さん
ありがとうございました。
山内さん
餓鬼と仲良くするという発想はありませんでした。ありがとうございました。
丹下さん
なるほど。そう考えるとわかりやすいですね。
ありがとうございました。