hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

苦しいです。

回答数回答 2
有り難し有り難し 36

こちらで素晴らしいアドバイスをいただきましたが、精神が不安定なようで自分をコントロールできません。
頑張って努力をするようにと励まされたのに、悲観的になり絶望してしまいます。
急に涙が出てきたり、寝る前に号泣したり、夜中に何度も目が覚めて嫌なことが頭の中をグルグル回り、眠れなくなります。
理由はわかっています。これまでの自分の行動が招いた結果のたまものです。
自分がそうやってきたから今の結果なのだと、受け入れるほどに後悔と、これから何をしても駄目だ無駄なのだという絶望に苛まれています。
何とか精神を落ち着かせたいです。どうしたら前向きに不安にならずにいられますか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「できる」にとらわれない

先のことを考えると悲観的になってしまうのですね。

しかし「これから何をしても駄目だ無駄なのだ」というのは「何をしても駄目だ無駄なのだという自信」があるということです。「できるという自信」はなくとも「できないという自信」はあるのですよ?できるかできないかはやってみないと分からないのに。

不安というものはまだどうなるか分からないものに対して生じます。誰だって未来は不安なのです。
だから不安をなくして取り組むのでなく、不安のまま取り組むのです。自分の心は元々不安定なものでコントロールできないものですよ。

誰かを好きになろうと思ってなれないでしょう。悲しくなろうと思ってなれないでしょう。感情は湧き上がってくるものです。自分で起こすものではありません。

心が不安定でも、その思いをどうにしかしてから何かをするのでなく、そのままの状態で何かをしてみることで心が安定してくるかもしれません。

何かをしてみて、結果それができなくたっていいのです。何かをできることに凛花さんの価値があるのではありません。今そうして「ただあること」に尊さがあるのです。

「より多く」「より早く」「より正確に」なんて世間の価値観にとらわれなくてもいいのです。世間なんてものは実体がなく実際は一人ひとりです。

凛花さんが「こうしてみたい」というものに取り組むならば、それができてもできなくても、ただ存在してそれに取り組むことができるというだけでそれは素晴らしいことなのですよ。

できるからやるんじゃないのです。やりたいからやるのです。不安のまま今を駆け抜けましょう!

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

心の画面にタップしない

スマホもPCも触らなければ休止画面やスクリーンセーバーが作動します。
コントロールしたければ、ここがコツです。
さわっているのでしょう。
コントロールとはいたずらに画面をタップしたりページを開いて無駄に電力消費する打ことではありません。
たとえば洗濯物が干してあるとします。
触れば揺れます。
手を離せば揺れが鎮まります。
揺れるのを触ったり、押さえて止めようとするのはコントロールではありません。
あえて触らないこと。
それが、心をおさめる為の最良のコンㇳロールです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

煩悩スッキリコラムまとめ