人に接するだけで不安、そうでなくても不安
生きる意味は生まれてきた意味なんでしょうか。
自分の存在価値は他者との関わりから得るものでしょうか。
人とうまくいかないと無意識に刷り込んでしまっている私がいる気がします。
自信をつけたくても失う方が多い。
よくしてもらっても不安があります。
生きてる意味があるのかと不安を持つ私に思います。
だからなのか私の生きる意味は子供たちに重心がかかっていると思います。
ここまで苦労しなかったら子供の心配ばかりしてなかったかもしれませんが。
もっと他に生きる意味を見つけた方がいいのだろうと思いますが今は一杯一杯です。
何を生きる意味にしてるんだろうと、道いく人を見渡しています。
いちいち考えるものでもないのかもしれませんね。
なのに生きる意味、生まれてきた意味ってなんだろうなって考えます。
子供たちに重心をおいて考えてしまう私はやっぱり何か違うでしょうか。
自分自身に何もないように思えるからかもしれません。
自分のために生きて来なかったからかもしれません。
余計な心配をしなくていい人になりたい。
何かの歌に似てるけど不安より愛と勇気と元気と友達になりたい。
でも一時よりは随分よくなってるから贅沢な望みかもしれないですね。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
考えない人のほうが変なのだ
人生は書物を1ページづつ開いて読んでいったら終わりまで見通せるというようなものではないですね。1冊の書物は起承転結が備わっていますが、人生の次のページにはなにがあるのかだれにもわからないものです。日々これ新しいページなんです。そして今日というページだけに自分が生きています。
なぜここにじぶんがいるのか?
なぜこのひとが身内なのか?
などと不可思議な思いで両親や兄弟をはじめて見るような思いで眺めたことが、私にも度々あります。わからないから書物を乱読する。でも自分で納得できないまま、疑問を持ち続けるのが考える、思索するということです。
>何を生きる意味にしてるんだろうと、道いく人を見渡しています。
>いちいち考えるものでもないのかもしれませんね。
>なのに生きる意味、生まれてきた意味ってなんだろうなって考えます。
不思議だなと思う自分がいるというのは大事なことです。
不安があって考えるのは、あなたの哲学のはじまりです。
世間を観察してありのままの人生を眺める。
観察が想像力を広げたり、ありのままの、真実や虚偽の人間相が見えてくるでしょう。
そして自分がどうあらねばならないか、どうありたいかも見えてくるでしょう。
観自在にものが見えてくるようになれば、自在に行動もできるようになってきます。
観自在 から 動自在の人生が開かれてくる。
そういうことを私はよく話させていただいています。
参考になれば幸いです。
生きているではなくて今は生きることが許されている命だから
ららさんこんにちは、自分は何のために生きているのでしょう?このご質問の答えは100人いれば100とおりの答えがあってもいいのかもしれませんね。ですから子供達の幸せの手助けをするためにという生きるという目的もすばらしいことだと思います。子供達の幸せな姿を観られることが自分この上ない幸せということもあると思います。それを踏まえて私なりの答えはまず自分の力で生きているのではない、今はとりあえず生きることを許されているのだということです。人は他の命の犠牲を積み重ねて生きています。誰かに迷惑をかけて生きています。そのことは人それぞれにその罪を重ねる事に対いてそれと同じ対価として生きる事が許されている意味があるはずです。それは先ほど言わせていただいたように人それぞれに答えがあるあると思います。ただ自分の力で生きているのではなく、今はこうして生きていることが許されているのは、今の私が生きる事が許されためにやるべき事があるはずだということです。それが今はららさんにとって子供達の幸せのために生きるというすばらしいことなのだと思います。そしてその先に次のららさんの生きる目的も見つかるかも、生まれてくるかもしれません。私はそう思います。ちなみに私は生きることを許される限りは生きるだけだと思ってます、目の前のやるべき事をただやるだけだと思ってます。人には限度があることを忘れず、でも安易に限度を造らず、そしてその許された時間が過ぎたなら阿弥陀様とのお約束のもと極楽浄土に往生できたなら思う次第です(そのわりには悩んでますが・・・)。ゆっくりと生きることを許されたこの時間を生きていきましょう。それが自分のために生きるということにも繋がって行く気がします。
追伸 善人ですら阿弥陀様は救ってくださる、ましてや悪人ならなおさら救ってくださるとのお教えがあります。ここで言う悪人とは常に罪の意識を持たれる謙虚な方、善人とは自分の生きる上での罪を認めない偽善者ともいえます。ららさんはそれだけ謙虚でいられるのであり、幸せに向かって確かに進まれています。ご安心ください。
質問者からのお礼
山内 宥厳 様
ご回答ありがとうございます。
書物を読むようなものではない、まさにそのとうりです。
子供の頃から思っていました。
一時間で読める本も2~3時間で終る映画も問題がちゃんと解決して終るのに、私の人生はいつハッピーエンドになれるんだろうと。
今のページまでしか書かれていない本が人生なんですね。
そして観自在ってすべてを知るって事でしょうか。
彼を知り己を知れば百戦あやうからず。といった感じでしょうか。
不安と疑問もお友だちになれるようにします。
ありがとうございます。
(いつの間にかおきもちボタンがあるのに気がついたのですが、クレジットカードを持ち合わせておらず申し訳ありません。)
憲章 様
ご回答ありがとうございます。
罪と同じだけ生きていることが許されると聞いて少し楽になりました。
罪のない人なんていませんよね。
子供時代から取れない不必要な罪悪感もしんどかったのでハッっとしました。
生まれてきてよかったと子供たちに思ってもらいたいし自分もそう思いたい。
きっとこれから変わっていくと思いながら目の前の事をやっていく事にします。
憲章様
追伸ありがとうございます。
幸せに向かって進んでいるならいつかはたどりつきますね。