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幼少期、問題児だった自分の後悔。

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有り難し有り難し 16

いつもお世話になっております。
長文になりますが最後までお読みになっていただけますと幸いです。

小学校1年生の頃はとても酷く、思い通りにいかなかったら怒鳴って叩いたり、酷いことを言って泣かせたり、沢山の同級生を傷つけてしまいました。
先生によく怒られている問題児でした。

また、私が大人になってから母親に
幼稚園児の頃も暴れん坊で母親がノイローゼ寸前になったと聞きました。
同級生やその他にも母親やその保護者の方達にも迷惑を掛けてしまって後悔しています。

自業自得ですが、中学校に上がった時に小学校の頃に仲がよかった人に避けられました。そこで私がどれほど再度気付かされました。気付くのが遅すぎました。また、高校生の頃、過去の私に似たタイプの人に意地悪されたり嫌味を言われたりしました。

それからは、感情的になって行動しない事と、他人の気持ちを尊重して行動をするように気をつけました。
まだまだ改善しないといけない事もあるかもしれませんが、過去の同級生に声をかけてもらったり、こんな人間にも優しくしてくれる友人が数人出来ました。

友人はとても優しくて思いやりのある方です。幼少期も問題を起こさず人生を歩んできた人達です。
私はそのような事が出来ず、過去に罪がある者が、まっすぐ生きてきた友人と関わって良いのかと罪悪感が湧く時があります。

いつか私の過去をちゃんと話さなければいけない時があると思います。
1人の友人は小学校からの友人で過去の事を話しました。
ですが、まだ他の人には言えていません。どういったタイミングで言えばいいか悩んでいます。
友人に嫌われても仕方ないことですが
情け無いです。

過去に過ちを犯した存在でありながら
未来で幸せになりたいと思っている私が愚かで情け無いです。

・人間は変われるのでしょうか?

・後悔と反省だけで自分は成長するのか心配です。

・自己満足かもしれませんが、同級生の方達に改めて謝罪をしたいのですが、住所や連絡先が分からない状態です。

この3つでずっと考えております。
長文となってしまい申し訳御座いません。

アドバイスをいただけますと幸いですよろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

菩提心 自分を精神的に向上させようと思う心

人間は変われます。
よりよく成長することができます。
欲にも良い欲があります。
自分が誰かのためにお役にたちたいと思うことです。

後悔と反省だけでは成長しません。
後悔1秒反省1秒反映一生です。
後ろ向きな思考は何も建設的なものが生まれません。

悪いことをしたら謝ることは大事です。
同窓会などであった時に謝れるとよいですね。

自分が持っている力でもってスッと何かを手を差し伸べられることは大事です。
どんな困難に見舞われても、それをきっかけに良い方向へことを進めるのです。
菩提心(ぼだいしん)とは、苦しい状況にあってもそれをより良い方向へすすめるエネルギーです。
今回、苦しい状況にあっても、そこから立ち直ってください。
植物も光のある方向へ向かって伸び続けます。
坐禅は本来の自分に出会うことができます。
ネガティブ思考や後悔、自分を責めることはみな思考なのです。
思い・考えが自分を苦しめていることに気づいてください。

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。御坊様が仰っていた菩提心(ぼだいしん)という言葉を忘れずに、過去に囚われることがあってもそれを改善という方向に力を使っていきたいです。
何かの言動で人を傷つけてしまったらしっかりと謝罪し次に同じ繰り返しを起こさないよう、意識していきます。

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