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ダメな母親

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子供はもうすぐ2才になる男の子です。
最近ダメと言われることをわざとやるようになりました。
例えばアパート住まいなのですが、壁をドンドンと叩いたりします。
私と主人が周りに迷惑がかかると神経質になってイライラして注意するので、さらに叩いたりします。
主人がイライラしているのを見ると、そんなイライラしなくても…と冷静に思うのですが、子供と二人でいるときはどうしてもイライラしてきつく怒ったり「出て行って」と酷いことを言ったりしてしまいます。
そしてあとから必ず後悔して、怒ってばかりでごめんね、大好きだよと子供に謝ります。
ネットでイライラする原因や解決策などを見て、明日からは優しいママになろうと思うのですが、結局またイライラしてしまいます。
先日ストレス性難聴になり、お医者さんにストレスはある?と聞かれ、小さい子供がいるのでと答えました。
子育てがストレスって悲しいなと、難聴がよくなってから思いました。
そして常に、私が母親でこの子は大丈夫だろうかと、そもそもなんで結婚なんかしてしまったんだろうとまで思います。
先行き不安だらけです。心が重たいです。
どうしたらもっと心に余裕をもって生きられるのでしょうか。
アドバイスお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

子供がストレスではありません

お子さんがストレスなのではありません。他人を意識するあまりに迷惑をかけまいとする心や、自分の望むあらかじめの理想設定があって、それ通りにいかないことで腹を立てたり、自分が今やりたいことがあってそれがダブルブッキング状態でできなくなっていることで、イライラしているだけです。
心の中に椅子があるとしたら、そこは一人しか座れません。
優先すべきことがあるかもしれませんが、お子さんに対しては席を譲ってあげるようにしてあげてください。
壁を叩くのもある程度させておくと飽きてたたかなくなります。
お子さんはそれをやってあなたが過剰に反応して気を向けてくれるのがうれしいからやるのです。
あなたの方から構いまくって、ちょっかいだしてくるなぐらいに愛情を注いであげると、気を引こうとすることも無くなります。
かまってあげるべき時間は何度かやってきます。
もともとおなかの中にいた子供です。
一番快適で安心感があったのがお母さんのおなかの中だったのです。
だから、お母さんに気を引こうとするのは当然で仕方ないことなのです。
子供の目的はあくまでも、お母さんと一緒にいて安心したいのです。
また、大人の価値観で何でもかんでもブーブーいうとしょげしょげな子供になってしまいます。怒らないに越したことはありません。
まずは、あなたが物事に反応するときに五合目でボンバーせずに七合目まで事の成り行きを見届けるようにしてみましょう。
お笑いでもツッコミが過剰だったり、ツッコミが早すぎるとお話にすらなりません。
子育ては、つっ込まなくてもいいくらいがちょうどいいのです。
母親特有の、こうでなくちゃ主義を自覚なさって、あまり思いつめませんように。
もう一つ。
ストレスという言葉って、ある種暗示にかかりやすいものです。
忘れた方がいいです。
ストレスという言葉を過剰に掴むとなんでもストレスに結びつきますから、私はストレスという言葉が脳内辞書にありません。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
私はなんでもきちんときちんとしないと気が済まなくて、周りの目もとても気にしてしまいます。
それが原因でイライラしてしまうのですね。
子供に席を譲るとゆうこと、意識して過ごしてみます。
最近ママ、ママで甘えん坊すぎるなと、それも心配ではあったのですが、私の気を引こうとするのは当然のこと、安心したいんだとわかりました。
これからは事の成り行きを少しでも長く見届けられるように努力していこうと思います。
ありがとうございました。

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